という声を顔の近くにきき、そういうとき浅瀬の波のなかで、自分が一生懸命つかまっている腕をも感じました。そんな感じをもちながら、入口の蔦《つた》の這ったポーチに腰かけて太郎のやる花火を見物したりしていました。
 眼は、昨日又行きましたが、殆ど痙攣がしずまったそうです。半月以上棒にふった甲斐がありました。でも、半月は長かったこと! そして眼鏡も度が測定出来て左が 2.5 の近視に 0.5 の乱視。右が3の近視に 0.5 の乱視ということです。今のレンズは3ですが乱視はついていないの。きのう眼鏡やへよって3に 0.5 のついたツァイスのをたのんで来ました。一時、ツァイスが入らなくなると云って一対で35[#「35」は縦中横]円もとったのよ。今は停止価格で片方7円か八円、マア十円どまりでしょう。これでもう大丈夫。よく気をつけて、仕事のどっさりあるときは薬をつけて、夜は眼をひやして寝て、それをつづけたらいいでしょう。どうもいろいろ御心配をかけました。
 パニック的手紙を、かんしゃくの問題という風に片づけるとすれば、本当におっしゃるとおりのことになります。でもそうではないと思います、私のそれに対する気持は。そんなものとは思っていないわ。そうだとすれば、或る程度まで一方的な性質で片づけられることですものね。そういううけとりかたがあるとすれば、かかれている本質が、上を流れて去るばかりです。
 きめたこと、約束したこと、それをきっちり実行するということは、私たちの生活の条件のなかでは特別な意味をもっていると思います。生活の全般のディテールがすっかり見えているときには何故それが出来なかったかよく分るけれど、そうでない場合は、実行されなかったという結果だけがそちらには見えて、しかも、それを実行するという約束が生活の接触点となっているのだから、そのことについて実行されたされぬということより、接触点が現実的に確保されないような感情への響があるわけですものね。私は、小市民的云々のこともあるけれど、それに加えて、そういう生活感情の面も重く感じます。そういうことからも生活が大切に扱われなければならない事情に私たちはおかれていると思うの、そうでしょう? 生活を大切にし愛してゆくということは具体的だから、その事情に従って、ひとには分らない要点が具体的に存在すると思います。それは全体から見れば一部のことだ
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