いないのでしょうと思うのですが。どうでしょうかしら。全体的に云えば。
所書のちがったお手紙二つ。どうもありがとう。五月十五日のと六月二十五日のと。生活というのは何と面白いでしょう。この二つの手紙のうちにある天気の工合、そして、三十一日のなかにある風の吹きかた。そしてこんな風も、やっぱり五月十五日のなかに云われている水をかけたり、陽にあてて暖めたり、手入れのいい植物を大切に思う、その一つのあらわれであるということも。たとえば月曜日に私がその上に漂うような心持で、目をまわしながらうっとりとして歩いていたその気持と、水曜日やきょうの気持の変化。そして、そんないろいろの気持の断面がチラリと見えるきりで、見えた断面に一日の気持が、多く支配されるというのは、私たちの独特な生活の条件ですね。こういう光景は非常に趣が深いわね。同じ詩集の中の描写でも、泉の上に太陽は出ているのだけれど、すこし風立っていて、すこし荒っぽく樹の梢がふかれる風がふいていて、雲が飛んでいる。泉の噴水は、いつものようにおのずから溢れてふき上げながらその風で漣立って、水の頂きを風の方向にふきなびかせられている。秋の情緒ですね。美しい寂寥があります。風にふかれつつ光る水の色などに。
きょうは午後、『朝日新聞』で会がありますが電報でことわって出ません。そんな風に気をつけ、余りよみかきせず、三四日休んだらいいでしょう。ごちゃごちゃして御免なさい。ズーっと力をこめて一定に引かれていた線が、突然ゆれて力がぬけたみたいで、きっとあなたも「甚だ妙」でいらしたでしょう、私だって駭然としたのですから。こういう疲れかたは、おどろきを伴うのよ、特に「あら私目がまわる」と云ってすぐそこでつかまる手がない生活のなかで。この気分おわかりになるでしょうか。そこに手があってそれにつかまれれば、つかまったそのことで、もう疲れのいくらかは癒るのよ。これもお分りになるでしょう? 私の場合は大層な大所高処からの見解で、うっかりつかれたというと、それは通用しないのだから大したものねえ。全く大したものねえ。でも、疲れないようにいくらしたって疲れたとき、私はやっぱりそれをあなたに向って表現するしかないでしょう? それが自然なのもお分りになるでしょう? 国府津のことはもう考えていませんから。グラグラしたはずみにそんな気持になったのです。
お客のこともわか
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