、昨夜床に入ってから、ふといいこと思いついて、ホクホクして居ります。今に面白い静物写真帖をお送り出来そうです。日本の静物写真帖でもなかなか逸品があり得ることに思い到ったというわけです。
 話が逆にもどりますが、日大あたりの芸術科って先生はひどいのね。久野だの浅原だのというひとなのね、伊藤整なんかましな部らしい。ここの映画科でとった「日大」とかいう画は、迚もひどいものだったそうです。法政ではいろいろ学内政治のいきさつで、文科をやめにしてしまうという有様ですし。あっちへひどいかこっちへひどいかというような有様ですね。
 試験制度が変って、本年中学に入ったものの知能の低下、高校の程度の下落著しく、おどろかれて居ります。バカほどこわいものなしと、昔の人は賢いことを申しました。
 尾崎士郎が「三十代作家論」を『都』にかいています、その渾沌性について。しかし尾崎士郎自身、「人生劇場」ですこし金まわりがよくなったら、やはりきわめてあり来りの生活形態を反復している有様だから、自身の常識性に足をとられていて、やはり文学の中でものを云っている。そんなものであるものですか。昔の文学は常識からの飛躍であったとすれば、今日の彼等のとことんのところは、常識の埒外のものをもって常識のなかにとびこむ方向をとっている。つまり生活の土台はちゃんと常識の中のもののままでかためてゆくことを眼目に文学をやっているようなところがあります。だから石川なんて、尾崎の云っているように逞しい野性なんかどころか、おっそろしい皮の厚い実際性です、逞しき野性なんかという文学性で、尾崎は詩吟調の自身の文学から脱けられないのでしょう。
 尾崎は、世相が、彼等を流行児にしたのであって、云々と云っています。しかし、読者の何が、いかなる要素が、彼等を流行児にするエレメントとして作用しているのでしょうか、この辺三四年前、「大人の文学」という妙なことが云われ、大衆は批判の精神なんか持っていないし必要としていないと云われた(小林秀雄)時代から、急速な落下状態としてどういう意味をもっているのか、作家と読者とのむすびつきのモメントのことなど、いろいろ考え中です、『都』へ「読者論」を四回かきます、読者だけ切りはなして私には云えませんから、読者と作者との内的レベルの同一さがここで問題になると思うのです、現実に対して同じような低さ、俗さ、中学生程度
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