ます。詩人たちは、自分たちの感覚に若くて、自分のよむ詩の美しさ、その詩のテーマの美しさに我を忘れて、十分に表徴し十分に描き音楽化するところまで行っていませんでした。
それから、何かきわめて微妙な成熟が行われて一巻は一巻へと光彩を深めて行ったおどろき。私ははっきりその一巻から一巻への進歩を思い出せます。ある程度の間が各巻の間におかれて、次に発表されたとき、反誦復唱して私たちは何とその期間にゆたかにされたもののあることを、おどろいて讚歎したことでしょう。
詩魂の尊さは、そのような渇《か》れない進歩が最近の詩集にもうかがわれることです。これはもう何というか、現象にあしをとられての創造ではなくて、時とともに持続された美が瞬間瞬間の閃光に無限の表象をつかんで円熟してゆく一つの境地であると思います。詩人として、私はきっと大なる歓喜と恐怖とがあろうと思います。だって、あのシャガールの時代の作品は、何ていうか、云わば自然発生です。そのような諧調の組合わせは奇遇的必然ですけれども、それでも芸術化されてゆく過程のなりゆきは、自然発生でした。ところが近作になると、第一には第一詩集からの何とも云えないボリウムがかかっていることですし、詩はもう詩作されるというような位置になくて、詩人にとって生命そのものとなってしまって居りますからね。あなたはいくつかの詩から、本当にこの秘密をつかんでいらっしゃいますか? 本当につかんでいらっしゃいますか? 秀抜な文芸評論家として、本当につかんでいらっしゃいますか? 詩もその境地に到って、遂にいのちのうたとなったのであると思います。そういう程度の詩集になると、シャガールのファンタジーによる插画なんか不用になって来るところは、一層興味あるところですね。詩句をよりゆたかにする筈の插画は、シャガールがさかだちしたって、一つのより弱い説明でしかないのですものね。これも実に面白い。大衆小説に插画があって、純文学に插画のない必然もわかります。いろいろ面白いわねえ。
「五月の挨拶」のすこし先に、「わが笛のうたぐちは」というのがあります。これは絃楽器の伴奏につれてうたわれるべき一句です。覚えていらっしゃるかしら、若草に顔を近く、一茎の葦笛をふくうたです。藤村の昔の詩に「そのひとふきはよろこびを そのふたふきはためいきを」というのがありましたが、これは全く音楽の流れをもって
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