本当に面白い。緑の梢の意欲は泉につたわって、波紋となり、益※[#二の字点、1−2−22]しげい水しぶきとなるのです。梢はその波紋を遠く近くとりかえされて緑の波濤のように自身を充実させます。日は高く、泉の白さ、梢の緑と光線の金色の諧調が、かけるもののない空気のうちに満ちる様子。
泉の自然の制約をそれなり美と感じ、しかも歎くこころをうたった数節は、ゲーテの卓抜な抒情詩にまさると私は思います。美しさは人類ととものもので、しかもその細部では質的にさまざまのニュアンスを深めるところは、云いつくせない味いです。目にもとまらぬような何かの動作、そこを詩人はまことに敏感に美ととらえて、「五月の挨拶は」というような愉悦と哀愁の綯《な》え合わされたソネットをかくのだから、たしかに詩魂は生活の宝です。うたう心は、人間が精神において真直に立った姿、現象を一旦整理した上での姿として、うたの心はあらわれるから、そこに慰安(コンソレーション)がある、とアランが云っているのも本当です。
文学論とすれば散文の本質を、訴える、かけめぐる、現実追随の叫びとして本質づけて、詩の心と対比しているところに、アランの誤りは在るのですが。アランは、でもその生活の必然から「五月の挨拶は」という詩は知らないのだし、ましてやそれが散文で猶且つどのようにうたわれ得るかを知らないのですものね。かんべんしてやらなければなりますまい。アランのうけうりをして、リアリズムとはと武りんさんの踵について走りまわる人々にも、この「五月の挨拶」のリズムは別の世界のものでありましょう。
こんな詩をくりかえしくりかえしよみ、美しさきわまれば涙もおとして私はいろいろ考えます。自分たちがこれまでよんで来たいく巻かの詩のことについて。
いろいろの時を経て、詩の具体性、象徴、リズムが段々高いもの、いよいよ複雑であってしかも率直な作品へとうつって、このみが育ってゆくことは面白いことね。そのことについて、きっとあなたも折々はお考えになるのではないでしょうか。少くとも私は随分度々考えます。
四五年前、シャガールの插画のある詩集を私たちは愛読していたことがあったでしょう。あなたがおよみになり、私がよみ、又あなたへおくって、あれもよくよくよまれたものでしたが。今思えば、やはりシャガールの天井から舞いおりる愛の插画がふさわしい程度のものであったと思われ
前へ
次へ
全295ページ中93ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング