ないの。よめるかしら。よめないかしら。そう思いつつ封をしたところです。『文芸』は只でさえ、ミスの多いところです。
 ひどい風になったこと。例によってうちはガタガタ云って鳴りはためいて居ります。
 御気分はいかが? そちらは、こんな風でも、仰向いてねている顔に天井うらの無数の埃がふりかかる感じだけはありませんですね。
 きのう、私は顔を仰向け青葉のそよぎがそのまま自分の体となったような気分でかえりました。
 今年私は桜も美しいと思って見たし、若葉の色もこんなに眼や気持に沁みとおって。どこやらしず心がかえって来たのかしら(いい意味でよ)。もしそうだとすれば、うれしいことね。そして、そのよって来るところの意味で、あなたもやっぱり御満足でないこともないでしょう?
 きょうは些か閑暇ありですから、すこし詩集の話をいたします。あした、あさって、おいそがしいけれど、きっとこれはその後のすこしのくつろぎのとき着くでしょう。詩集とは別だけれども、きのうそんな心持で、夜もずっとその心持がつづいて、胸が余り優しくきつくしめられて、何だかまばたきしても、それがこたえる有様でした。だって、私がまばたきをすれば睫毛《まつげ》はめのなかにある輝いた顔の面をあんなにさわるのですもの。さわる感じが全身をはしるのですもの。電車のところに立っているとき、後を誰か、すと掠めて羽織のそとを掠めたら身ぶるいがしました。若葉の風というものはこんなにしみるものなの? こんなに枝もたわわなものであったのね。新緑の上に鯉幟が見えます。
 詩集のなかに「五月の挨拶は」というの、覚えていらっしゃるでしょうか。大変この頃の情景にふさわしい爽やかな、しかも生命にみちた詩句です。「五月の挨拶は 若き樫の梢 みどりの小旗をかかげ」という冒頭で。うれしい五月の日、芳しい草原のなかの若い樫の木は、いのちに溢れて気品たかく、しかも天真に、一つの泉に向って挨拶しようと、ゆたかな梢をもたげつつ、燃ゆる緑の小旗をかかげます。緑の小旗は、日光にきらめき、風にゆれ、何と強靭に美しく、はためいているでしょう。泉は溢れるしぶきで、珠のかざりをつけながら、ふきあげふきあげて、梢の挨拶にこたえるのですが、泉は地のもので、そこに在るしか在りようがないという自然の微妙さに制約されているのです。この泉の自然への従順さと歎きとは非常に幽婉な趣きで語られていて、
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