を題材にしたものの態度を思い浮べて居り、そして今日の文学の歴史観の問題を浮べて居り(歴史観の欠如から来る事大主義)ました。短く古典の歴史文学(「平家物語」、「太平記」等)にもふれてみるつもりでしたが。この機械的現代化に陥らず、というところ実に深い価値があり、うれしゅうございます。歴史小説のことが嘗ていろいろ云われたとき、このことはこのような正確さで云われたのでしょうか、そうでなかったように思われますが。この一句のために、たくさんの御礼がされなければなりません。
アイヌのこと、元はちゃんとかけなかったと今わかるところが、お手紙に云われている点です。そういう本質についての理解は全くなかったから、ヒューマニスティックなエキゾチシズムに終ったでしょう。アメリカのホーソーン(古典だけれど)に、「モヒカン族の最後――ラスト・オブ・ザ・モヒカンズ」というのがあり、インディアンをかいたものです。それと、ファジェエフの「ウゲテからの最後のもの」などくらべたら、これも又面白く一つ小さい感想がかけますね。
作品で、一つの新しい面へ赴くとき、そういう風に、一応、文学の課題として本質的な研究と古典の見なおしなどをして、そして作品をつくってゆくこと――自分の理解一杯のところ迄理論的にはっきりさせておいて、作品をかいてゆくという一人二役性も、今のように文学の課題が出されない環境のなかではためにもなるし、作家として一つの真実な態度かもしれませんね。
『文芸』の仕事のようなことをやっても、随分私の作家としての面に有効でしたから。こういうタイプ(作家の、女の)、何だか面白いことね。いかにも文化貧困のやりくり性があらわれていることでもあるし、その半面では、婦人作家の通ヘイである自然発生性からの成長でもあり。
充分描ければ、作品としての面白さは、大名夫人に遙にまさります。但その十分描くというところが、ね、主観的でない困難があり、その程度が、わかるような分らないような。
一頁勉強のこと、我慢しているうちには、とかいてあって、全く破顔一笑よ。今私が何かにふれて、一昨年あたりフーフー云ってよんだものの助けを得ているように、きっとこれも二年ぐらい経ったら効力があらわれるのでしょう。実力なんてそんなものね。
実力と云えば、四月の『図書』に、西田哲学の紹介をかいていた人があったでしょう? およみになりました
前へ
次へ
全295ページ中73ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング