ろう? 私はこの西田という人のベルグソンと東洋とをこね合わせた考えかたがふわけしてみたくて、誰かすっきりとやる人はないかと思っているが、哲学畑は一寸皆呪文にしばられている形で、面白いと思います。つまり日本哲学と称するものの、出来具合がほぐされたところが見たい。私の内在的なものはいろいろ嗅ぎつけて居るのですけれど。ああいう頭を小説の中の人間として扱いきれたらそれも面白いでしょうね。漱石が、先生という人物その他を扱い、あれは作者との関係では単純で、肯定のタイプですが、そう単純でなくね。現実反射の形としてね。阿部知二も知性というなら、せめてその位のり出せばよいのに。哲学の領域で不可能なら、小説の領域で、と云い切れたら愉快でしょうね。あの哲学の「無」なんて、随分国産のモチ(竿につける)よ。横へおしてゆくと出るところは、谷崎、永井あたりです。この頃の武者にも通じたところがある。
明月にひらかれた詩集のはなし。ね、この文章に対して私は何ということが出来るでしょう。その詩が、一度よりは二度と味いを増しつつ朗々と吟誦されたとき感歎に声もなしという風だった、そのような状態が私にさながらそのままにかえって来るようです。ヒローたちの自然さ、逞しさと、云いようない優雅さの流れあった姿。そして、真に天真なものの厳粛さも何とあらゆる曲折のうちに充実していることでしょう。
私は、詩集をくりひろげるごとに、ヒローの優雅な気品への傾倒を深めます。この傾倒の深さ。致命的ね。この感覚の中に生と死とが貫かれています。年毎に、こういう味いが深まってゆくというのは、何としたことでしょう。それほどあの詩は大きい実質なのですね。ね、私はあの詩が好きよ、本当にすき。あなたの手をとってそう云ったら、私は眼へ涙がいっぱいになるでしょう。そのときあなたは何とお答えになるでしょう、絣の着物の袖から手を出しながら、「ああいいよいいよ」、そうおっしゃるでしょうね。その窓の彼方には緑色に塗られた羽目があるでしょうか。
今は夜で、あたりはごく静か。スタンドが灯り、薄紅の蝶のような蘭の花が飾られている机の上で、山羊のやきものの文鎮に開いた手紙をもたせかけ、僕は明日にはじめて芳しい詩集をひらいて、という句を、じっとよんでいる、この句の調子が、何という音楽を想いおこさせることでしょう。私は泣かないでいることが出来ません、でもそれは
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