のはお世話にならないのだから、と。
 私の代りに多賀ちゃんは便利ですね。いろいろの点、島田のこともお話しになれるし、様子もおわかりになるし、寿江子がゆくより気もおけなくて本当にうれしいと思います。
 四月から来る筈だった子、駄目になりましたし、多賀ちゃんの学校の方はお話したようなわけですし、一週に二度ぐらい裁縫に行って、夜一寸英語行ったり、丁度よろしいでしょう。
 私は、今月はこまごましたものばかり多いのですが、大体十日迄にすまして、しまえる予定です。それはそれで、又あといろいろあって。なかなか四月に入って、ごたついたものぴったりやめるというわけに行かないのでこまります。今から先の分は断然おことわりです。
 新しい『文芸年鑑』一寸開いて見て、何となくハハアという感にうたれました。入っている写真もそれぞれの意味で、日本文学にとって歴史的なものをふくんで居ります。文学史というものの性質を、考えさせるものです。文学史とは、こういうものに描き出された面が果して文学史でしょうか。文学史の材料というものも考えます。文学史は其々の時代の作品に即して行かないと、どういう方へ漂流するものであるかということを真面目に沈思させるものです。
 作品を生《き》のままによんで、そこから現実をつかんで所謂文学史の内容を見きわめられるだけの文芸批評家が必要です。
 この間、『都』の「大波小波」に女の批評家出よ、という短文があってね、私は批評家にちがいないけれど小説が本分で「自分でも、謙遜だろうが『作家の感想』と云っている。」あとは板垣直子一人、その本質は、と『文芸』に出ていた批評家としての生い立ちという女史の文章にふれていて、女の批評家出よ、と云っているのです。これは、そう容易に、はい、出ました、と出ないものですね。いろいろ考えて面白かった。日本の社会、文化での女のありよう、文学での女のありよう、それらを考え合わせると、女は、女流[#「女流」に傍点]というところでとかく一寸風よけしていてね、私だってあなたが評論をおかきになれば、おそらく「作家の感想」は愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》感想に止っているでしょうし。マアこれは一寸耳をこちらへ出して、ソコイラノ評論ヲ評論ト云イ得ルトハ思ッテ居リマセンガ、私ニハホントノ評論ヤソノ骨格ガワカッテイルカラケンソンスルノデス。というわけでしょう。
 
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