御納め下さい。私にはやがてコメディアというものの精神もわかるかもしれませんね。トラゲディアとコメディアとの精神はまるであっちこっちとの極ではくっついていますもの。私は益※[#二の字点、1−2−22]自分を無くしたいと思います、無私にありたいと思う。そして生活のあのうねうね、このうねうねに、うねうねして入ってゆきたいと思う。自分の道というものを押して来た作家、それが成長のあるところで飛躍してこの歴史的無私になり得るということは大変むずかしいことで、又そうでなければ、押して来た、ということの歴史的な意味の失われることで、なかなか面白い。
 多賀ちゃんと寿江子の生活上の力というものについて、やはり同じことを感じます。多賀ちゃんはどこでも生活してゆける力をもっている。寿江子はそうではないわ。そういうことから又自分の環境というものを私は考え直すのですけれど。今年もよく勉強しましょうね、質のいい仕事しましょうね。一月号の仕事は、その点もマアお年玉組です。てっちゃんが心からいろいろよろこんでくれましたから、私はこう云ったの。「どうぞ御亭主さんのところへその半分でも書いてやって下さい。私が自賛出来ないし、もししたら『己惚《うぬぼ》れは作家の何よりの敵だよ』ときっと云うわ」と大笑いしたわけです。でもね、夜、床に入って考えて、もし、一言あなたからましだね、ぐらいに云われたら、どんなにうれしいだろうと思って。どんなに満悦だろうと思って。
 ああ、それからこれは笑い草の部ですが、『科学知識』の十一月号でしたか十二月号でしたか、およみになったのね、戸川貞雄の文芸時評。アンポンねえ。苦笑いなさる顔が見えて、自分も笑いつつ何だか手のひらが汗ばむようだった。あの筆者が歴史の性質を否定していることはあのひとの問題ですがね、でも作家とすれば自身肯定している部分で肯定されないなんてことは、やはり辛棒しにくいことですから。
 一月の「広場」なんかは、評者がやはり判ってはいないわ、本当のところは。しかし、重点のおかれているところには、やはり重点をおいて居ました。そのひとの主観からの色どりでほめていたりして。(二日のつづき)
 あのね、お正月らしい色どりにこの封筒へ第一信入れようとしたら、厚くなって入り切らないので、このしっぽはこれでおやめにして、薄いうち、こんな封筒おめにかけます。子供だましだけれど、でもね
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