のですけれども。(哲学的に、ね)文学の面白さとこの人間精神のコンソレイションの関係は面白いこと。誰もつきつめて居りませんものね。私は自分の文学はそういう輝きで飾りとうございます、では又。このおしまいの部分は、面白いのよ、私の成長の歴史として。又かきます。

 一月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月二日  第二信
 お喋りのつづき。
 小説の面白さと精神のコンソレイションの話。この関係の微妙さと、高低の相異のひどさは、考えると面白いこと。精神に与えるコンソレイションが宗教で代られた(文学における宗教味)時代もあり、道徳で代られた時代があり(ピューリタン時代)文学、すくなくとも小説のこのものは、現実そのもののようなねばり、多様性、動き、関係を、すっかり掌握してゆく作家の写実[#「写実」に傍点]ではなくて、そこに一つの見とおしをもっている感覚にまで及んだ知性、そういうリアリティーが、精神に与える満足と慰安と生活への鼓舞というもの。
 あなた覚えていらっしゃるかしら、いつか書いた私の手紙に、悲劇はない、というような意味のことをかいていたのを。自分の生活感情として。覚えていらして? ところが、あれは、主観に立ってだけのことで、それも今からは浅いと思われます。卑俗な云いかたでのそれはないにきまっているが、悲劇は人生にあります。悲劇とか不幸とか云うものはあります。(私の自分のことではなく)私はこの夏暑いところでいろいろきいていて、悲劇の悲劇であることをはっきり感じたことがあります、一人の婦人の善意の遭遇しためぐり合わせについて。作家として、テーマの本質をつかみ出すこと、その理解によって全体を見とおす平静さと悲劇はない、ということとは大したちがいです。そうでしょう? 私はその点では、未熟であったと思います。主観的であり箇人的ですね、そこでおさまっていられるとすれば。これは所謂悲劇への否定から出発していて、そのものとしてはやはり或る健全さへの探求の一つですが。今は、精神を高め、はげまし、愛し、涙そそぎ、しかも勇敢に前へ出ようとする力を与えるものとしての悲劇を理解するし、それがかきたいと思う。
 この点は、小さいようで、しかし作家としての成育では随分大切なことです。小説がかける心というものの真髄的な要素の一つですと思う。これが、私の小さいあなたへのお年玉よ。どうぞ
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