い。出勤はもう問題でありません、御飯ですもの。
家も、心がけているがなかなかです。本当に歩く距離でなくても十五分ぐらいだといいと思います。尤もこの頃は大分馴れて、大して苦でもないけれど。
おひささんの結婚話もまとまりそうですがいつ頃までうちにいられるか、代りがあるかないか。ない方が多く、そうとすれば、又考えようがあるわけです。それは又もうすこし先のこと。
すっかりおなかがすいてしまいました。では珍しくすこし余白をのこしておしまい。その位空いてしまったの。
四日の手紙もう着きましたろうか。南江堂と金原たのみましたが、本やの名から本がきまって、そちらの状態についてどうなのかしらと考えられます。お大切に。体の工合どうでいらっしゃるということはやっぱりよく知りたいのです。
三月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十一日 第二十一信
九日づけのお手紙をありがとう。くりかえしてよみ、心からの good wishes を感じ、ありがたく思います。作品のことについてここにふれられていること、そして又お会いしたとき云われた点、いろいろ深い興味と現実の諸問題をふくんで居て、反芻の味と必要とがあると思われます。
主題のことにふれては、全くそう思います。そのことは自然その題材に向ったときに面したことでしたが、私の心持のやまれぬ動きからどうしても書きたくてね。昨年後半からこの頃にかけての私の内的な状態では、この題材や主題のように、心をつかんでいるもの、書きたさに溢れる心持のものを先ず書いてゆくことの必要さを感じていたので、ほかにふり向けなかった。こういう心理は面白いものであると思います。底の粒々に一つずつふれてゆくように、この作品を書いてしまわなければ、自分の心の新しいありようが自身にたしかめられないというか、沈みたいと思うと石を抱くような、というか何かそういう必然の欲求が、こういう全く心臓に響いているものをつかませたわけです。だから自分では久しぶりに好きな心持で考えることの出来る作品です。これとして、やはり一つ、小さい一歩の前へ出た(自分の感覚ではシンと沈潜した)作品だと思います。だから此がのってものらなくても、これからすこしましな作品を生んでゆける創作の生理が感覚されたようなところがある次第です。
現実の可能の範囲をよく知ることは、作品の主題の健全さのためにも大切であることは明かで、そのために、十分の自覚をもつことは出来ないながら芸術の勘でそのことを感じている範囲の作家でも、或文学的苦境を感じているのが今日でしょう。あなたがここの点の多難性を芸術の本質と現実のありようとの関係に立って明らかに観て、ユリの勉強のむずかしさを考えて下さるのは、本当にうれしい。(当然であるけれども、あなたからすれば)ここいらのところに多くの複雑なものがこもっていて、云って見れば百鬼夜行の出発点ともなっているのですから。消してしまおうとするものによって消されてしまっては仕方がない。存在しようとする。その努力や摸索が見当をすこし違えると、「あらがね」以後のその作者になったりいろいろに変化《へんげ》する。全然ジャーナリスムとの接触を考えないということは、消しに身を呈することになるし。(仮令《たとい》最も作家として純真な動機によるとしても、現実の結果ではそういうこととして現われますから)生活上の必要もある。可能な、そして適した形と範囲とでその面での接触を保ちつつ、私としては長篇にしがみついて、折れども折れざる線を描いてゆくのが一番自然であろうと思われます。この頃の文芸附録を見ると、ジェームス・ジョイス(「ユリシーズ」の作者)が十四年目に長篇の完成を公表している。あんな連中でさえそれだけ粘る。心からそう思いました。いつか書いた、「チボー家の人々」マルタン・デュ・ガールにしろね。
私には段々あなたの繰返し繰返しおっしゃる自律性というものの真意にしろ真価にしろ、いくらかずつ現実の内容ではっきりして来るようです。こういう状態を想像して下さい。たとえば睡い朝、かすかに、そして途切れ途切れに物音がきこえて来て、それが追々急に近くきこえるかと思うとフット又遠くなり、だが益※[#二の字点、1−2−22]明瞭になって来る、そういう過程。これらのことはみんな「その年」という作品にも絡んでいて、私たちの会話に肉体があるという現実性とも結びついていて、生活と文学とに於て、グーッと私をひっぱりつつあるのです。表現が下手ですが、おわかりになるかしら。いろんなことが、やっと心臓までしみて来かかっている、そういう感じ。吸取紙のようで可笑しい云い方ですけれども。自分で深く感じて来ていることですから信吉や何かの中絶が頭脳的所産であったために切れたということも十分わかります。「伸子」「一本の花」「赤い貨車」(これは当時の過渡性がよく出ている、私の)それらは、皆ハートから書かれている。自然発生的にね。それから一時期、沈み切らないで、今|漸々《ようよう》又自分でもやっと力の出し切れそうに思われる沈潜性が、粘りが、絡みが、生じはじめている。何と時間がかかるでしょう。何とあなたの忍耐もいることでしょう! そのために去年という年がどんな重大な一年であったかも思います。そして、面白いことね、思いかえすとき、去年ぐらい苦しかった年というものを、ああこの数年来本当に知らなかったと感じるの。実際又その質に於て、ああいう苦しさは初めてであるのも実際ですが。すこし話が飛ぶようですがそうではなくて、私は今年カーペットを貰っていいと思う。去年にはまだ現れなかった深まり、リアリティーが、夫婦生活に生じていて、たしかに一時期を画していて、今年はあれを貰うだけのよろこびとそのよろこびを最も真面目な努力のための滋液とし得るところへ来ていると思います。
生活を創造するよろこび、それは決して単独では知ることが出来ない。樹々の枝さえ風が吹かなければあのようには揺れることが出来ないし、花粉でさえとぶことは出来ません。詩集のふるえるような美しさへの傾倒、それについての物語が、生活に一層の質実な潜精力を加えることは、まことにおどろくべき微妙さであると痛感します。
寿江子の体のこといろいろありがとう。ユリの薬も。非常に親切に調剤されて居ります。こまやかに作用します。神経の持久力のために、その鎮静のために。こういう薬が丁度適薬として発見されるに到った私の条件もうれしさの一つです。
さて、きょうは、あれから家へかえって一休みして、おひるを食べてどうしてもこの間から分らずにいる辞書をつきとめる決心をしました。又傘をさして研究社へゆきました。そして受付の女の子にたのんで、九月から本月までの雑誌を皆出して貰って、そこのテーブルで調べにかかりました。そしたら、あった。思わず雑誌を手でたたいて、笑ってしまった。九月よ。それでも大満足です、遂に見つけたから(あなたは又ソーラ、そうだと思ったという顔でしょう? 目に見える)その結果は次のようです。
英和では
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岩波版、斎藤、熟語本位英和中辞典。
千頁前後のポケット型のものとしては、竹原、スタンダード英和辞典(大修館)。岩波版英和辞典。
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和英
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宝文館 竹原のスタンダード和英大辞典
研究社 大和英辞典
日英社 斎藤の和英大辞典
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「ポケット型で役に立つようなのは無い」とありました。
竹原の大辞典というのを持っていたことがありますが、これは新聞から本から実際につかわれている文例を引っぱって来てあって、実に大[#「大」に傍点]辞典でした。面白くもあった。
それから別の号でしたが、引用文のための辞典で、エヴリーマンス・ライブラリーの内二冊で出ている「引用文と諺の字引」Dictionary of quotations & proverbs. というのの紹介があった。ハムレットの to be or not to be なんかや、英語の花より団子式のものがあつめてあるのでしょう。これも特長のあるもののわけです。どれにしましょうか? お考えおき下さい。
あのスナップショットは三月で終りですね。研究社の斜向いが栗林氏の住居。よって見たら、きょうそちらへ行ったとのこと。これはおめにかかって。
今はひどい雨風です。外に西日よけに吊ってある簾《すだれ》がバタバタ云ってあおられていますが雨戸をあけられない。切れてしまいやしないかと心配です。
表、三日から十日まででは一週間ですが、区切りのために。
起床 消燈 頁
三日 七・〇〇 九・四五
四日 六・四〇 一一・三〇 戸池さん達の日
五日(日)八・〇〇 一〇・〇〇
六日 七・〇〇 九・五〇 一二頁
七日 六・三五 九・三〇 一五頁
八日 七・〇〇 一〇・〇〇 一八頁
九日 七・三〇 一〇・一五 二〇頁
十日 七・〇〇 一〇・三〇 二〇頁
勉強の血肉性も身についてわかって来つつある。猫の舌にザラザラがあってよく骨までしゃぶります、ああいう読書力がありたいと思います。一日をごく充実して使いこなせるようになったらさぞいいでしょうね。この点まだまだ私はなまくらだと思う。稲ちゃんは心のこなごなに苦しいようなときでも、ウーウー云いながら、そのときの心持とかかわりないものを書く。去年見ていてびっくりしました。ポツンとした終りの手紙ですが、これで一まとめ。あしたはどんな日曜でしょうね。お客のないように。
三月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十二日 第二十二信
今、后すぎの二時半。ひどい風がややしずまって、何とあたりはしずかでしょう。おひる迄相当勉強して、パンをたべに下り、ひさは出かけているのでひとりで、今度は小説をよみながらたべ終り、今年はじめて縁側のところへ座布団を出してすこし又よんでいました。八つ手の葉や青木の葉が昨日の雨に洗われてきれいな色をして居り、土は春の雨のあとらしく柔かくふくらんで、静かで、あなたも、あしたはユリが来ると思いつつ、こんな空気を感じていらっしゃるのかと思ったら、たまらなくお喋りがしたくなって来ました。そう沢山喋らなくても堪能するのです。ちょっと顔をこちらへ向けて頂戴。そして、そう、それでいいの、もう。
「ロダンの言葉」、お読みになったでしょうか。彼の作品の「手」覚えていらっしゃるでしょうか。「手」の面白さを高村光太郎などもなかなか云う美術家ですが、手は全く興味ふかい。生活が何と手に映るでしょうね。手が又何と生活の感情を語るでしょう。些細な癖にしろ。いろいろな場合の手。字ではこんなに単純な四本の線である手やその指の活々とした感覚。心と肉体とに近く近くと云う表情で置かれる手。優しく大きく口の上におかれた手。平俗な詩人ではなかなかその趣を描きかねるばかりです。彫刻で、ロダン位人間の情熱の明暗、生命の音楽を描き出し得た人は実にないと思う。それを見ていると言葉なんか飛んでしまって、非常に深い激しい情感の中へひき入れられてしまうような作品がいくつかあります。「考える人」や「青銅時代」や「バルザック」「カレーの市民」などと異った芸術の味で。ああいう巨大な芸術の才能が自由自在に動きまわり足音をとどろかせ得た環境を考えます。けさよんでいた本の中に歴史的成長と民族の関係が描かれていて、それは芸術家にもあてはまり大層興味がありました。読んでいるうちに、農民文学についての本もわかり面白かった。ポーランドの作家の「農民」など、この頃チープ・エディションになって第一書房から出たりしています。アイルランドの農民の生活も世界的に特長をもっているらしいが、この間死んだイェーツなどそういう面からは注目していないようですね。アイルランドとして主張し提出している。イェーツなど大変(グレゴリー夫人とともに)夢幻的詩人のようにだけ思われているが、アイルランドのためには生涯絶えざる仕
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