ちらへ九時三四分前。それから九時三十分か四十分まで待って、パチパチと話して、それからかえり。前後二時間―三時間です。十一時ごろはかえれます。
この家は、鉄道の柵の方から自動車が横通りまで入り、門から横通りまでは一丁ぐらい。その点は便利です。表の大通りまで三丁位で、そこからもひろえる、この間うちやっていたように。勿論朝八時すぎにはなかなかありませんが。どうしても歩くしか方法がないところとなると或場合は却って不便です。ここからは、先頃のようにおなか押えているときでも行けたが。あれが歩くきりだったら出られませんでしたね。きっと。目白タクシーというのが表通りにあって呼ぶと角まで入ったから。
寿江子は雪景色見物かたがたこの天気に又家さがしです。きょう、表のぬかるみがひどくて下駄の上までかぶるので裏へぬけて見ました。ああいう家々! もしどこかに火事が出たら人はどこへ逃げるのでしょう! 一人やっと通れる小路をはさんでつまった小家。ああいう家も、猶家作[#「家作」に傍点]であるというのはおどろかれます。この日の出という町で小学校の子供が生活の苦しさから自殺しました。
今年は、去年の夏以来のおかげで出勤にもやや馴れ、気持もゆとりが出来、又沈み重ったところもあっていろいろたのしみです。体も丈夫になって、毎日出て行って、ちゃんと仕事が収穫されてゆけば、私たちの生活も、相当に勤労ゆたかである訳でしょう。私は益※[#二の字点、1−2−22]はっきり、自分の作家としての生きかたを考えて、そうやって仕事してゆくのこそ自分の条件なのだとわかって来たから、ほかの形で仕事してゆく条件など毛頭考えません。――仕事の間(そちらへ行くのやめるとか何とかの意味)お早うと云って、仕事の話もするようになれると思うと愉快です。そうしたら勲章を胸にかけてさし上げましょうね。そのように、手をゆるめず、育てたのは謂わば貴方のお手柄だと思いますから。従来の習慣、これは林町的と云うよりは文学というものの従来のありようとの関係で、私は体を動かすことと机に落付くこととの調和を見つけることが実に下手でした。文学の勤労的でない性質の反映で。その点も進歩すれば、収穫もしたがって豊かになりまさって来るわけです。文学の生活的土台もこういう風に微妙且つ具体的ですから一朝一夕ではないわけです。
片上全集と一緒に婦人の法律をお送りします、明日ぐらい。
ああ寿江子がかえって来た、鼻の先を赤くして。鬼子母神のあたりや先を歩いて見たそうですが、大きい化ものやしきのようなのが一つ売又貸と木札を出していた由。
さてお約束の表、十日より二十日までの分。
起床 消燈
十 日 七・二〇 一〇・五〇
十一日 七・四〇 一一・〇〇
十二日 八・〇〇 一〇・四〇
十三日 七・二〇 一時半(ホーラ、目玉がギロリ、でしょう? これは何しろジュータンでしたから)
十四日 九・三〇 九・四〇
十五日 七・四〇 一〇・一〇
十六日 七・三〇 一〇・三〇
十七日 七・一五 一〇・〇〇
十八日 七・〇〇 一一・四〇
十九日 八・〇〇 九・四〇
二十日 七・一〇 九・三〇
仕事や読書の表はこれから。この間によんだもの、例のプルードン批判。小説ではデュ・ガールの『チボー家の人々』二冊。そしてこのブックレビューを三枚。ジイドの「贋金つくり」と並べているが、その質のちがいについて。映画について(『三田新聞』七枚)、『婦公』「最初の問い」一枚。そして小説についてこね中。
ほんとうに冷えること。おなかにこたえないでしょうか、シャツがあってよかったと思います。
きのう栄さんのところで、アメリカの通俗的な『ライフ』というグラフを見てアメリカ、スウィス、ロシアの雪だるま、と云っても巨大な芸術的なものの写真を見て実に面白うございました。アルプス附近は線が変に澄んで居り、ロシアの人形はいかにも雪国の重厚さ。アメリカのはイヴと蛇というような、あたじけないのでした。ではお風邪をお大切に。
[#ここから2字下げ]
[自注3]おっかさん――小林多喜二の母。
[#ここで字下げ終わり]
二月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二十三日 第十八信
二十一日づけのお手紙をありがとう。蜜入りの特製牛乳の御褒美呉々もありがとう。あの製法にもなかなかなみなみならぬこつがあるわけですから、それを御馳走してやろうと思って下さったのはうれしいと思います。
表のむらなことは、おっしゃる通りですが、この頃又すこし進歩してね、表をつけなければならないのにムラだという結果からの小乗的注意からぬけ出て、一日を一杯に内容的に暮そうとすると、どうしても早ねも早おきもせざるを得ないことが、会得されて来ました。其故今後は従来よりも本質的な自覚で改良されてゆきましょう。やっぱり体のため、というようなことからだけではモーティヴが強いようで強くない。仕事を割当てて見て、その必然が身につく方がたしかだし実質的です。ユーゴーまで! 実に笑ってしまった。だってね、ユーゴーが六時、十時と壁上にかいておいたのは何故か御存じ? あれは、決してそれが実行されず、何しろ当時のパルテノンで、徹夜して当時の文人が集ったから、それへの武装的布告だったのですもの。ユーゴーもまさかにその銘がここでこのように語られていようとは思いもよらないでしょうね。何と面白いでしょう。パンテオンのユーゴーの墓は立派でした。
読書のこと、きょう話に出た通り、何か仕事をしている間は、と云ったらきりがないということは本当です。それではいけないと思います。それに、出勤との関係で、急にキューキュー仕事をするということより、一日に少しずつ割当ててやってゆく方法をとらなければ仕事としても長つづきはしないことが明白になりましたから、来月からはキチンと実行して見ましょう。本月中は御容赦。
この頃は虫も退治され、栄養も心身ともによく薬も実に活力の源となるききかたをしているので、きっちりとして、而も収穫的に暮してゆこうとする努力がたのしさを伴っています。小説をかくにしろ、夜昼ないようにくいついて短時間に書くのではなく毎日毎日一定数だけ(五枚か三枚)書きためてゆく愉しさ。よっぽど昔、一番はじめの小説を、女学校に通いながら書いていた頃のような書生っぽさ、そんなものが甦ります。そういうようにして小説も書けてゆくというところに、小説そのものとしての新しい意味もあり、書く意味も生活的に深いわけです。私は、前便で書いたように、若いときからすぐ専門的生活に入って、その旧習にしんでいたから、或時期以後、生活の形が変り、動的要素が殖えて来たら、そういう面が不馴れで、精一杯のところで、そういう生活全体をひっくるめて掌握して仕事をどしどししてゆくという実力が欠けていた、今ごろ、はっきり其がわかります。文学の上の仕事ぶりそのものに一般的にある旧態(世の中一般のことよ)は、私の身にもついているのですから。現在、私たちの生活の条件が、私の心にある自然な要求に結びついて、こうして徐々に徐々に私の生活能力を高めつつあるということは、つきぬ味があります。遂にそこに到達しかけているということのうちにこめられているあなたの御心づくしと努力と忍耐とを、ありがたいと思わざるを得ません。今年は花も実もある暮しが出来そうですね。去年のうちに相当耕された土地に、本年はやさしい肥料がいかにもたっぷりという感じで。そして、それがどんなに必要だったでしょう。どんなによく作用しているでしょう。どんなに、それなしには伸びられぬという種類のものでしょう。その程度の深さ、おわかりになるかしら。楽々として、而もたゆみなく努力してゆくことにある愉しさ。それでなければ仕事など出来ない、単なるむこうっ張りや力こぶを入れた態勢では。いろいろのことから次第に奥ゆきのあるところまで生活がたぐられてゆき、それに準じて足どりも進むところは興味つきぬものがあります。二人の生活が血行よく循環して、現実的に豊富化されてゆくこと。歴史における意味についての理解から来る全面的な肯定が、初歩の時代に(生活の)ややロマンティックな光彩を添え、それはそれとしてやはり当時における真実であったのが、追々成熟して来て、結ばれかたは一層ときがたいものとなり、生活の成果も現実的に強固の度を増して来るという推移は、実に実に味が深い。一つ一つの段階がふっきれてゆくには時間がいるものですね。よい薬をたっぷりと体にしまして、私はあなたの数々のグッド・ウィッシェズに応え、枝ぶりよい花や、つやのよい実を生んでゆきたい。はい、これが一つ。それから、はい、これが一つ。そういう工合にね。よろこんで下さるでしょう。そして、どんなにホーラ御覧と、おっしゃるでしょう。どんなにそう云われても私のよろこびも大きいから、きわめて気よく、一緒になって、本当ねえ、と感服をおしみません。
小説は、ふかく生活にふれたものにしたくて本気です。どうかおまじないを。小さくても、私としてはこれまでと全くちがった条件(生活の)で書いているのだし、気持も或掃除後のことだから、作家の勉強のマイルストーンとしては決してどうでもよいものではない、そう思って居ります。生涯には外見上目立たなくても本質的にそういう作品があるものだと思われます。例えば、「一本の花」。あれは「伸子」からおのずと出て、然しまだ当のない成長の欲望が語られて居るように。
武麟は、純文学が生活からおくれてしまうかもしれない、と云っていて、そのことを直ぐ彼らしき文学の方向に暗示しているが、純文学を最も健全な意味で文学らしき文学と解釈すれば、作家の生活能力如何が、これからの多岐な社会生活の中で最後に決定条件となるものだということが益※[#二の字点、1−2−22]考えられます。そして、それは、明かに光治良氏のように妻君の金もちや、丸山義二君のように、二百円もらって温泉で農民小説をかく生活能力[#「生活能力」に傍点]ともちがったものであるのだから。
母親がね、小さいときから赤ちゃんを抱いているため、段々腕の力がまして、相当重い赤ちゃんも比かく的疲れず抱くということ。屡※[#二の字点、1−2−22]思いますが、このことのうちにある自然の微妙な美しさ。
さて、今私は可哀そうなビッコタンです。けさ、上り屋敷の駅で電車にのろうとしたら右足のふくらはぎがどこかプキンとしたら、筋がちがったと見えまるで痛くて、今はヨードを塗り湿布をして小さい象やの怪我姿のようです。でも大したことはないでしょう。明日もゆきます。きょう御注文の三笠の目録も『科学知識』、もありました。『東京堂月報』、とりあえず、家に来ているのをお送りしておきます。和露は近日中に出かけてしらべましょう。
『科学知識』は予約しましょうか、毎号それぞれよむところがあり私もお下りをやはり興味もちますから。
『都』に、フランス文学と、アナーキスティックな思想の擡頭ということを書いている人がある。これはまとめて読んできっと又感想があろうと思いますが、いろいろ実にわかりますね。あすこの雑多性、それの時代的|歪《ゆがみ》など。作家イバニエスの故国においてにしろ、そういう要素が活躍したのですから。簡単に燃え、たやすく消える装飾の灯かざりというものはいつもある。その幻滅を、文学的[#「文学的」に傍点]に修飾しようとするエセ文学趣味がある。自分のしんが燃えつきるとそれで歴史のともしびも燃えきったように思うおろかしさ。うぬ惚れ。いろいろある。文学は人間の精神をとまし、同時によごしてもいる。そのありようの条件にしたがって。
片上さんの第一巻(全部で三巻)一寸頁をくって見て、いろいろ感じ深うございます。文章が何と肉体的でしょう。今、こういう風にしんから身をなげかけて書いている評論家、こういう人間情熱が揺れているようなものをかく人はいません。皆とりすまし、自分を六分か七分出し、あたりの兼合を気にしている。昔『生の要求と文学』とかいう本があって、私の最初
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