文章のなかにヨーロッパの文章のような「私」という主語をもちませんでした。そのことに大なる正負がある。日露戦争ごろから、日本の文章に私という主語があらわれはじめ、それは十分に成熟しないうちに、私の固執は、後退的な結果を来すような時代になって、而もその期間は極めて短かい。そのために、今日の文学の素地は、まだ主語を自覚さえしないところと、既に後退性に方向されていることを認め得ないで私に固執した小芸術に跼んでいるところとあり、更に現実では、主語(集合的な)を抹殺してしまおうとする不健全なものに抗して、目前の文学性が、それらの私の固執者によって全く個人的ゆがみの中でありながらも守られつつあるというような複雑さです。丈夫な樫の木のように、歴史の年輪を重ねて、真の健全性のうちに歴史的な主語を高めるということは、嵐のような精神史の一部です。羽音の荒い飛翔です。
 あなたは一目でよく私を御覧になるから、こういう変化――「私[#「私」に傍点]はあなたに従順である」という意識のようなものに変化が生じたこと、感じていらっしゃるかしら。よく云い現わせないほどデリケートな内部的な感覚なのですが。うち傾けた心持、判
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