文章のなかにヨーロッパの文章のような「私」という主語をもちませんでした。そのことに大なる正負がある。日露戦争ごろから、日本の文章に私という主語があらわれはじめ、それは十分に成熟しないうちに、私の固執は、後退的な結果を来すような時代になって、而もその期間は極めて短かい。そのために、今日の文学の素地は、まだ主語を自覚さえしないところと、既に後退性に方向されていることを認め得ないで私に固執した小芸術に跼んでいるところとあり、更に現実では、主語(集合的な)を抹殺してしまおうとする不健全なものに抗して、目前の文学性が、それらの私の固執者によって全く個人的ゆがみの中でありながらも守られつつあるというような複雑さです。丈夫な樫の木のように、歴史の年輪を重ねて、真の健全性のうちに歴史的な主語を高めるということは、嵐のような精神史の一部です。羽音の荒い飛翔です。
 あなたは一目でよく私を御覧になるから、こういう変化――「私[#「私」に傍点]はあなたに従順である」という意識のようなものに変化が生じたこと、感じていらっしゃるかしら。よく云い現わせないほどデリケートな内部的な感覚なのですが。うち傾けた心持、判断、行動、それだけがあって、ああ私はこんなに心を傾けている云々、という、そういう自覚みたいなもの、枠みたいなものが総ざらいの間に段々まわりから落ちてしまっている、そういう感じの違いかた。感じとしては非常に直接だから、きっとおわかりになるわね。この気持の裡には、よろこびがあるのよ。
 午後三時ごろ速達でうつしものが届きました。して見るとお金の請求がそちらへ行ったのかしら。
 きょうは、林町の方へひさを手つだいにやったので夕飯は寿江子と二人。林町、家が古くなって土台があやしくなって来たのを機会に、玄関を入って西洋間へ入るところをすっかり直して明るいホールのようにし、食堂の床は板にして椅子にすることにし、土蔵や洗面所の方もすっかり手入れしました。まだ半分で、明日二階で式をするためにはいろいろ一先ず形をつけなければならないので人手不足の由。私が十四五歳の頃からそこにいて初めての小説やその次の作品や丁度あの『一つの芽生』という本に入っている位までの作品をかいた茶室風の部屋も、これで未練なく消えてしまったわけです。寿江子はちょいちょいフランスの詩などを読んで、それに曲をかいています。二階から夜下へおりて行って、お茶をのみながらそんなのを読むと、文章で云えば小品文のおけいこですが、単純で未熟だが、やっぱり興味があって特別な心持がします。プーシュキンの詩が、その北方的なものが一番ぴったりすると云っている。寿江子が、例えばストコフスキーという人の指揮ぶりの非本質性を本能的に見ぬいたり、ストラビンスキーという、日本の現代作家80[#「80」は縦中横]パーセントがその亜流であるような在フランス作曲家の非音楽性を見ぬいたりするところは、健康な資質で貴重だが、その健全の可能が、どのように伸びるか。そこには又おのずから私とちがうもちものもあって、一般音楽会のレベルの、文学と比べられぬ低さとの関係もあって、なかなかむずかしいことです。
 今夜はこれから届いたものをよみはじめます。
 明日、林町へゆく前に一寸まわりたいけれども、儀式だの青山へ行くことだのでもし疲れそうならばやめて、予定どおり三十一日におめにかかります。大衆小説のようと云っていらしたのもよみ終るでしょう。
 二月になったら二日おきぐらいにきめて又御出勤をはじめます。それから一日おきにして、遂に再び毎日という工合に。勉強や執筆などは、やはりこっちをきちんとやった上での組合わせとしてやりましょう。
 かぜの方はいかがですか、やっぱりずっと順にようございますか、お大事に。私はこの頃やっと夢が殆どない平常に戻りました。腹帯は、眠っている間はしないことにして居ます。色のついている夢は、視神経が眠りきらないときに起るのですってね。成程とすっかり合点がゆきました。私たちのように視覚の活動がはげしいものは、過敏な折もあって、色付の天然色夢を見るわけですね。何も気違いが見るというのではないわけです。誕生日に下さるものお考えがつきましたか? 本年は、本当に万年筆を買って頂きましょうか、私の愛用ヒンクスウェルズの金Gはもう入らないのです。だからこんなに減って頭のなくなったのでもつかっている次第です。万年筆の先は堅くて弾力がなくて手くびがつかれます、そうではありませんでしたか? 万年筆でも買っておいた方がいいのかしらと本気で思案中です。割合暖い夕方ですね。又明後日に。

 一月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(自宅茶の間の水彩画の絵はがき)〕

 よごれるかと思うと惜しいけれども。これが茶の間。おなじみの長火鉢。おなじみの茶ダン
前へ 次へ
全192ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング