フの性に対する考えかたとの対比においても或健全の要素をもっているけれども、それにしても「恋愛は婦人問題の核心に位する」というその位しかたが、どうも今日から見ると架空で、上の言葉と「大いなる恋愛は勿論、世間的な諸方面の知識を理解するについては子供らしい欠陥を曝露するであろうが、併《しか》し謎と問題とにみちた自身の領域に於ては神の如きエイ智であり聖紀の宝賜でありまた奇蹟を行うの力である」云々ということばを対比して、それが、明治四十年代初期という年代の日本と、ニイチェのロマンティシズムの中で息をしている成瀬仁蔵のフェミニスムと天才主義にそだったらいてうその他を考えると、実にその矛盾においてよく青鞜というものがわかります。その意味でなかなか面白い。
キリスト教の習俗の結婚が神聖であると思われていることに対する不満、箇人の選択による恋愛と結婚とが一致すべきものであるとの要求、又婦人が性についてリアリストになる必要を云っているところ、よい恋愛と結婚のよろこびが心と体のものであることを云っている点、旧いものからの婦人の目ざめは感じられますが、ここでは恋愛が至上であるから、貧しい人々にも恋愛をよろこぶ資格のある人にはその権利をみとめ、富んでいてもその資格ないものには認めないという、そういうフォカスが当てられているところ、これも成瀬門下の考えかた――つまり彼女たちの境遇からの感じかたとぴったりしていたのでしょう。
下巻までよむと、恋愛における箇人選択の主張と、子供というものの公共性とが、どういう調和においてみられるのか分るでしょう。上巻の半まででは分裂があるだけです。母系時代のような子供の認めかたを主張するらしい。そして、どういう女が恋愛と結婚との新しい世界での勝者であるかというと、「イヴとジョコンダとデリラとを一身に具えている婦人」である由。些かあなたもおてれになるだろうと思われます。こんなきまりわるいこと云いながらケイ女史は真の恋愛の共感の微妙さは感覚的な真実にふれて云っているのに! そして、愛のひろさ深さ純一さのみが貞潔を生じさせると云っているのに、妙ね。こういう頭。非常に小市民風の思想家ですね。デリラで何を表現しているのかと思うと、ケイ女史の「焔の美しさ」云々も二元的なものと思う。サムソンを殿堂の下じきにしたようなものが、何か人間らしいプラスの力でしょうか。女のある及ぼす
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