トも。もしかしたら、やっぱり『改造』につづけてかくかもしれません、話の工合によっては。
 今は「藪の鶯」という花圃のかいた明治最初の婦人の小説の本質は、二十年という時代のかがみとして、女の真実の成長のためには、まともを向いたものでなく横向きのものとして出て来ているということ、一葉の完成が、旧いものの(文体と内容の)一致によって生じて居り、当時のロマンティストたち(文学界)が、その消えようとする旧いものへの魅力、自分たちにとってなじみふかい女のふるい哀苦を婦人作家がうたうということに対する一つの魅力とからめあって賞讚と支持とをおしまなかったこと、それだからこそ、哀苦もその味にとどまってしまっていたことなど。「『藪の鶯』このかた」

 六月六日
 ゆうべは可笑しいでしょう、くたびれて十時ごろ寝ようとして、急におやと一あわてしてしまいました。けさ、そちらに行くのだったか、水曜だか急にどう忘れして。勿論覚えていて、水曜日と思い、七日と思い、寿江子にもその話していたのですが、日記を出して例により起床、消灯、つけようとしたら、五日のところへ、大きい字で明日面会とかいてあるのです、あら、変だ、そうかしら、バタバタして、わからなければ、もしそのつもりでいらして行かなければ本当にわるいから、一日早くてもかんべんしていただこうと思って、ドーッと二階下りて、ハンドバッグ出してメモ見たら、ちゃんと「来週水曜日」とかいてあるのです。ああ、ああと、書いてあってよかったと一胸なでおろしました。何かに熱中していると、ボッとなって、急に思い出してかんちがえしたりする。志賀直哉の「狐とおしどり」の話ね、「お前はいつだって思い出さないでいい方ばっかり思い出して、とんまだね」と云われている妻が、良人とおしどりに生れ代る約束して、間ちがえて狐になり、良人のおしどりを見たら、可愛くて、おいしそうで、切なくて、涙こぼしながら到頭たべちまったという話。アンポンは万更ほかにいなくもないのです。メモ大明神でした。
 とんまになる原因もう一つ。それはネズミ。三日ばかり前、ふろに入っていて、ふと天井を見たら、天井板のすき間から電気のコードのようなものが見えているが、どうもあやしい、すこし先の方が細くなっているのです。「ちょっと」。寿江子を呼んで、「あれ、何だと思う?」「フーム」。やっぱり同じものと思うらしい。ネズミです、
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