閧オて一般の関心がたかまっているから、かくれた婦人の献身者の話などきき、女のサアという声を発しさせようというところにあった。ところが光田さんにしろ林さんにしろ、特に老年の光田さんという人の心持は、スケールが大きくて、そういうこせついた一箇人箇人の一寸した插話というような網にかかって来ないのです。だから結果として実話[#「実話」に傍点]的なものからは遠くなったのですが、私はしみじみその点敬服しました。その人は救癩と減癩そのことについてなら、いくらでも話します。しかし自身のこと、又箇人のこと、決してヒロイックに語らない。クリスチャンですが。本気でそれにかかっている人の没我、それはあながちクリスチャンだから謙遜だというようなものでもないのです。私には他の例で実にそういう没我の確乎性を実感せしめられているわけですから、その人の内面のありようが血液の流れの幅として感得されました。そういう意味で愉快でした。クリスチャン・ドクターですね、しかし話の間にそういうものが根本に作用しているという風には決して話さない。そういうところにも永い経験の結果があらわれているわけでしょう。病理から入ったのだそうです。病理解剖から。二十年後日本は無癩としたいという目標の由。広東省辺に非常に多い由。インドにも多いよし。伝染だから隔離がなければひろがります。光田氏反応と云って菌を一遍煮たのを注射すると、ひどく腫れてうんで菌を押し出す作用が健康人にはある、それを注射してふくれないのは、見たところ何ともなくてもあぶない、保菌ということになる由。これが経験せられてから、病の有無などの鑑別に世界的貢献をしている由。そういうことはともかく(読んでわかることですが)あの光田という人の話しかた、生きかたとジャーナリズムというものの対比は実に感銘深かった。一事をなしとげるとはどういうことかということを示していてね。日本全体で三万足らずの患者の由(台湾、朝鮮のことは出ませんでした、そう云えば。貰った表にもなかったと思う)。
 一寸別の話ですが、北條民雄が川端氏に推されて小説など発表するようになったら、癩文学というような語がつくられたことに北條は非常に不満を示しています。生理的の病気で文学の性質をわける、特殊に見る愚劣さについて。これは、かねがね私が北條の文学で川端さんが命の力をやたら感歎することについて、ある憤りさえ感じ
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