ニころが見えたり。二三軒先に小さいカフエがあって、鉄脚の白い小テーブルと碧《みどり》と黄とでぬった小椅子が往来に出ているというような街すじ。歩道には新聞紙の屑が落ちてもいる。木曜日とか金曜日とかに市が立って、女の魚売りがゴム引布の大前掛をかけ、肱までのブラウスで、片手を腰に当て、片手をのばして大きくひらいたり握ってふったりしながら、ケンカのようないい威勢であきないしている。そんなような街。
アパートにしろ、パリの古いアパートは階段が暗くて狭くてぐるぐるまわっていて、何百年前に建ったときから日の目は見なかったというのがどっさりあります。
ソルボンヌのそばあたりには古い建物が非常に多くて、その便所が、水洗には改良されているが、コンクリートの踏石(レンガ位の大さ)が左右にあって、あとは流し口のついた凹みだけというのを見たことがありました。随分びっくりしたのを思い出す。パリの真中の、こういう長い長い歴史。コウカサスの山の中でやっぱりこれと同じ仕組みのを見ました。但こっちのは絶壁に向ったさしかけにこしらえられていて、こわかった。
親たちはペリエール並木道というところのアパートに滞在していてね、そこは、地下電車が真中を通っているが、その上は公園のような植込みになっていて、電車も車道もなく、従って道幅は大変ひろい。向う側のカフエの赤と白との日覆と青塗の植木の鉢とがやっと見えるような街でした。そこの表通りに面した五階か三階でした。台処の通用口は玄関とまるで関係なく建物の横手から全階に通じていて、雇人たちの住むのは建物の頂上の半屋根うらの一階ときまっている。(雇人なんかうちの連中にはなかったけれども)
日本の御飯を母がたべたがって折々私が台処をしました。カロリン米をたいて青豆を入れたりして。
そのアパートに近藤柏次郎という人がいました。どんな生活をしているのか分らなかったが、ピアノの名手であったそうです。この人は母堂が急死したら、家産を親戚に横領され、急に帰って来たが、その状態がわかったら、お嫁貰ったりしたのに芸者と死んでしまいました。ピアノで立派に生活出来たのに。パリパリで、妙になってしまったのでしょう。こういう、文化の素朴な伝統の中から、ああいう底なしの壺にうちこまれると、キリキリまいをしているうちに、ズルズルと沈んでゆく。非常にそういう例は多うございますね。多様さや外
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