う癖の根は実に深い。決してカントを崇拝しなくても、そういう点では夥しいカントの門徒がいるわけです。こういう考えの癖が、癖として、身についたものの力でちゃんと見ぬけるということは、現実をどう見るか、それが即ちちゃんと見える上からのことだから。
自分の長所を理解さすことが出来たら、と私が書いたりする気持、それは論理上、短所はしかじか。では長所は、なんという風に対比させて考えたり数えたりしているわけでもないのです。然し、お手紙で面白く感じました。やっぱり、ともかく私は長所という一つの観念を短所と対するものとしての従来の習慣なりにしたがって、深く考えず表現したのですから。そして、それにはそれだけの何かがあるわけですから。言葉は生きていますからね。ちょろりとある尻尾は出している。面白く思う。今の私の心持は、その発端にあっては大分鼻づらをこすりつけられ的であった勉強のおかげで、世界の大さ、立派さ、業績と称し得るものは(少くとも人類としての規模で)いかなるものであるか大分身にしみて来て居りますから、自分の長所とか短所とかいう風での自身のみかたや扱いかたで自分にかかずらう感情はありません。「閲歴」をふりかえって何かそこからみみずの糞のような気休めでもさがしたい程貧弱な気分でもありません。子供っぽい興がりから、すこし大人のよろこびというか、面白さの味がわかりかかって来ているようで、近頃は大いに心たのしいところがあるのです。ですから点のからさも、からさとしては感じません。からさに対置されるものを甘さとすれば、土台そっちから問題にしないことにしているわけですから。私について、二人で、こうだろう? そう思い、事実そうだろう? と語られ、それが会得されて、うなずき、そうね、そうなのね、と話す、そのような調子(これは会話で或場合言葉の表面と逆の内容を語るほど雄弁なものである、その調子として)として考えられます。わかったことによって自分が悲しいと思うとか思わないかは、その調子をかえるものではありませんから。自分がこうと希望して、その希望の正しいことも分っていて、そう行っていないとわかって、悲しくないものはないわけですもの。悲しみは人間を(そのつもりでいれば)馬鹿にはしますまい。幸福と称されるものの凡俗さが人間を、いつともしらず虚脱させるようには。
睦は、遙か彼方云々は、一寸お話した通り。一般
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