、だが、ペニイの従妹めいたものもあるのではないか。包括性としてあるのか、どうか。ね、私には幸、便宜的な社交性、功利的な社交性というようなものはすくない方だけれども。俗人気質は全く通暁してよいものだが(作家として)自身の俗人性は、これ又本ものの作品の基調と両立しないものです。文学上のこの点は少しこまかに考えると面白うございますね。久米正雄は文学者というものは一般の大衆より一歩先を歩いていなければならないが、決して二歩三歩先を歩いてもならない、というような彼らしきことを云って、その例として漱石、ゲーテ、トルストイ等あげていました。(よほど前)凡人らしさで衆凡との共感が保てるというわけです。共感ということがここではもっと詮索を要しましょう。もろともに泥濘をこがなければ(現象的に)ならないというのでは、直さんです。泥濘のあるのが現実で、そこをごたごたやっているのが現実だ、そうい直れるものではないわけですから。いつぞやの手紙でふれた小説と神のような心の話ね。考えて見ると文学もジタバタですね。作者の眼のひろさ、高さ、複雑さは、何かこれまで共感のひろさ、複雑さといくらか別なもの、判断力ぐらいの範囲で云われていた傾きがあり、従って共感というと現実主義に傾いて、自分にも対象にも溺れる甘える結果を来している。日本の純文学が私小説となり、今境地小説として出ているのとこのこととは、なかなか深い因縁がつながって居りますね。
ああ、豊富な人間になりたいわね。豊富な人間になりたがる人間ではなくて、豊富な人間そのものになりたいわね。私にとって大切なのは、自分の努力で、現実に、今よりはもっと豊富になり得る余地があるということを常に知っていることです。
様々の大小の題材にまともに当ってゆくことで、私の生きている内容を試し、しらべ、自分にわからせてゆくつもりです。もとより彼此《あれこれ》を書きこなせる、ということではなくて。
『朝日』夕刊に「宮本武蔵」が出ていて(社では夕刊を、むさしという。ニュースらしきニュースないからの由)もう二刀つかうようになったむさしが、愚庵とかいう禅坊主に一喝くらって、昨夜はむさしがその機縁を失うまいとして坊さんのとまる宿の軒下にねてくっついてゆくというところが書かれていました。ロマンチシズムもあり来りのものですが、機縁をのがさぬ心構えということはものを書く人間が、生活の間
前へ
次へ
全383ページ中129ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング