の本の棚にあったのを覚えて居ります。ともかくこの人としての声の幅一杯に出そうと努力している。そこに読者をうつものがあります。第一巻の序に、種々の理由から全労作は収められなかったとことわられて居りますが。今日の最も良質の情熱は、沈潜の形をとっているのも興味ある点です。
岩波の新書に武者の『人生論』あり、大して売れる由。どこでそうなのかと研究心を刺戟され、一寸よんだら一分ばかり常識をふみ出していて、しかもそれも亦よし式で方向がないこと、(読者を苦しませる)あらゆる読者がそこから自責とは反対の、自己肯定をひっぱり出すモメントに満ち、それを苦労なくオーヨーに云い切っているところで、売れるらしい様子です。武者式鎮痛膏ね。ではきょうはこれで。
三月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月二日 第十九信
どーっと二階をかけ下りて行って、すんだ! と、ぺしゃんとあなたの前に座りたい。正にそのところです。今、四十何枚めだかを(まだ数えない)書き終ったばかりです。(終)と書いた紙をわきへどけて、これをひっぱり出したところ。
よく底まで沈んだ気持で一貫してかけて、うれしいと思います。力がこもって。川の水が流れるとき底の石粒に一つ一つさわってゆけるときいい心持でしょうね、そういう心持で書けました。
ここにはお茂登というおっかさんがいます。情のふかい、けなげな母親です。子供が出征して、寂しさで生活についても消極的な気分になるけれども、やがて子供の可愛ゆさで気をとり直し、子供のためにしゃんとして働いて生きて行こうという気になる母の心。そういう心持は、そとのこととして私を日頃感動させているばかりでなく、私の女としての骨髄をも走っている感情です。傷みを知らぬ気づよさ(一面の鈍さ)でなく、深く傷み、やがてその傷みから立ち直る生活の力。決して決して、肉厚なペンキ絵のようなヒロイズムではありません。惻々たるものです。小さいがテーマは確《しっか》りとしています、そして「小祝の一家」や「猫車」より心持が、すこしずつながら深められ、味が口の中にひろがるように、情感のひろがりがある(ように思われる。そのような気持で突こんでゆけたから)。
私がこんなによろこんで話すのは、こんなに底に触った心持で書け、そのような心持で書ける生活の心持がたっぷりとあること、それがうれしく、あなたにも、
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