く机に向って居ります。
 ところで、私はいつぞやの(四月七日の日の)貴方の私へのおくりもののねうちをこの頃一層改めて深く理解し、本当にあれは云って貰ってよかったことであると思って居ります。何故ならば、島田からかえって来てから、私は勉強にかかって文学的覚書をかきはじめて居るのですが、こまかに本気にとりかかっていると、自分がこういう勉強をみっしりやりつづけなければ本当の現実的発育というものはおくれるという事実が、明瞭に明瞭に分りました。そして、こういう細かい周密な勉強をして見ると、ひとしお芸術というものに深く歩み入る云うに云えぬ深い味いが身にしみ、逆にそういう感覚を喪失することの致命性が分るのです。而も、喪失は、誰を見ても決して一時には起らずいつとはなしに、日常の裡にジリリジリリとどこかへめり込む如く生じて来る。三年、五年の後の相異はどのようでしょう。
 この間の小説の話も一言には表現し切れぬ多くのものがあると思われます。根本的な欠点は、時代から時代の推移があらわれている自然な一人物をとらえて来て(現実の中から)その主人公の人生への善意を描こうとしているのではなくて、或意図のもとに、歴史の血脈を否定して、志村と対立するものとして創り出した駿介を、作者があらかじめ枠をつくり各コマを区切った局面と心理との間へ、無理を押し切ってつめこんでいるところに、一般の読者を満足させなかったものがあったのは当然でしょう。
 駿介が志村に反撥した時代、自分のからから動き出した原因、それらは極めて曖昧であり、現実に駿介のような存在は、尠いでしょう。作者は用心ぶかく駿介が耕す畑やなんか持っている条件を、そういう条件を皆持っていやしないという批評もあろうが、と予防しているが、どうしても、駿介が近頃文学にも流行のインテリゲンツィア無用風のタイプから、どうぬき出ているのか分らない。田舎の生活のこまごましたことはしらべてある。だからそのくっきりしたところが、真実のテーマである人間の動きの拵えものとの間にギャップをつくり、あの作品の不自然な観念と現実的細部との間のギャップの見えないものには、人間の非現実性を覆う作用を営んでいると思う。人間の本当の生活というものの考えかたも変です。田舎の現実と云う点でも、例えば駿介の親父のようなのは或意味で哲人であるし、周囲の村人たちが、大学を中途でやめて来ている駿介に、皆があんなに抱擁的であるのは実際から遠い。もっと辛辣です。もっといろいろ痛くない腹をさぐる眼ざしをします。あなたもよくよく御承知のように。
 人間の善意というものは、どのように形をかえてでも流れ出ずるもので、その美しさと活々とした力とは水のようです。傑《すぐ》れた芸術家ほどそういうものを豊かにもっている。人間性の様々の工夫、様々の思案を親切に評価し認めてゆくのは作家の愛です。それがなければ、土台芸術はないようなものであるが、或作品を或形で書くことで、書かれているなかみを語ろうとしているのではなくて、そう書く態度を示すのが目的であるとしたらどうでしょう。文学作品の評価は、そこへまで触れざるを得ないでしょうと思います。若い人々の現実は、どうせサラリーマンになるんだから、一つ満鉄へでも入りたいね、池貝へ入りたいね、そういう今日の形をとっている面がある。阿部知二さんの「幸福」という小説では駿介のような苦学した大学生が、卒業すると自殺してしまう人物が出て来る。駿介は方面ちがいの勉強を恩恵的にさせられることをいやがると説明されているが、観念の堂々めぐりにあきて、土をほじくることでも行動がほしいと更に心理的に分析されて居り作品ではそこに重点がある。志村がそう動いて来たのなら、筋がとおったようでもあるが、駿介という別箇のものをつくって、それを動かすにしては志村と二重うつしです。猶々微妙ないくつかの点もある。河が溢れて堰《せき》を既にちろちろ切りかかって居るとき、その堰に自分の手に鍬をもっているから、水はこちらへ流れようとする力を示しているのだからと堰の土を掘り下げる百姓があったとしたら、洪水ふせぎに出ている村人はおこるでしょう。
 二日に、徳さんにも夏みかんだの何だのを御馳走した気でいたら三十一日に帰京したというハガキを貰い、きょう午後見えました。やつれてはいるが元気です。
 ひさの代りに来ている栄さんという娘は、おひささんより他人の家で苦労しているので、仕事というものの事務的な処理をわきまえていて、几帳面なところがあって、よいところがあります。これは随分の見つけものです。この次お目にかかる迄に一つ考えておいて頂きたいことがあります。敷布団のことです。もうそれも相当になったでしょうが、夏のうちにとりかえてはどうでしょう、そして頭の方の角《かど》を[#図3、縦長の長方形から、上部の角2箇所を斜めに切り取った形の絵](こんな形に)した方が、そして今よりすこし幅をせまくした方が(普通に)便利ではないのでしょうか、丈《たけ》の点で。どうか御研究下さい。ではお大切に。おなかをお大切に。夏は妙に、却っておなかの冷える感じがあるのね。

 六月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 第二十七信。
 今裏の鶏舎のところでお母さんと徳山の岩本の小母さんとが、ごみを焚していらっしゃる。駅のところでブレーキをきしませながら貨車が停車しました。この頃は貨物自動車の数が著しく減ったので、家の前通りは随分しずかです。夜中に耳についた貨車の軋りなどがこんな昼間によくきこえて来る。この汽車が蒸気を吐く音やギギーときしってしずかにとまる音には一種独特の淋しさがありますね。去年四月にきたときもそう感じたが。
 うちは、きょう初七日[自注4]でやっと少し落付きました。今までは全く手紙をかきに二階に上っていることが出来なかった。お葬式は喪主があなたでしたから私の用も多かったわけでした。万事とどこおりなく終りました。御父上の御経過から申しあげます。
 一週間程前(六月六日の)すこし心臓が苦しくおなりになったので、医者をよび注射をしてすこし氷でひやしていらした由です。それから又よくおなりになったが、すこし熱があるから薬をというのでそれだけずっとつづけていらした。六日は朝も昼も御飯をよく召上り、午後三時頃、多賀ちゃんがうちにいて、お母さんはつい近くの川へ洗濯に出かけていらした。そしたら「ヤイ」とおっしゃるので多賀ちゃんがお菓子ですかといいながら行ったら、大変汗を出していらっしゃる。「えろうありますか」ときいたら「えらい」といわれるので、「おばさん呼んで来ますから待っちょりませ」といったら、「待っちょる、待っちょる」とおっしゃった由です。川まで御存知の距離です。二人で戻って来たら、早もう息もおありにならない風で、二つばかり大きい息をおつきになったきりで万事休したそうです。医者は、従ってそのあとで呼ばれたわけですが、もちろん手の下しようがなかった。
 お母さんは、どうも食がちいと行けすぎると思うちょったと云っていらっしゃいます。おかゆなどもう一つと云って召上ったそうです。それにすこし話がおできになった由。「隆ちゃんも出征したらどうなろうかいの」とお母さんがおっしゃったら、「どうにかなる」と云っていらしたそうです。すこしの間仲なおりというような御様子だったのでしょう。私は八日の九時前にこちらに着きました。その日の午後二時に、三軒のお寺から坊さんが四人来て七条の袈裟《けさ》をかけて式をはじめ、家の横の寺へ行って又式をしてから火葬場へ運びました。この日は雨が大降りになるかと思うと又やむという空模様で、大雨の間と間とに事を運んだ形です。火葬にはこの辺ではしないのだそうですが、墓地が臨時なので、(野原の方はその大建造物[自注5]の敷地に入るので近く移らねばならず、今の場所〈家の上の寺〉は崖っぷちしかないので近くましなところへお買いになる由)火葬にしたわけでした。秋本精米の主人、富雄、隆治ともう三人ばかりの男のひとたちがおともしました。
 翌日はお骨上げ。やはり降ったり照ったりでしたが、お母さんと女のひと三人がゆきました。私は留守居。おかえりになった夜、坊さんが来て読経し、その坊さんとお母さん、隆ちゃん、私とリンさんという若衆とでお墓へお納めしました。場所は新しくきりひらいたところで、普通にゆく道とは別の、家からいうと先の方の右手の急な崖をのぼって墓地へ出る小路を知っておいででしょうか。その道から頂上へ出たすぐ右手のところです。お父さんの御骨は隆ちゃんがゴム長靴はいて背負ってかえってきました。私はこういうやり方をはじめて見たし、日頃からあまり仰々しい儀式のよそよそしさを感じているので非常に心を動かされました。すべてのやりかたに愛情がこもっている。坐って、紋附を着て、雰囲気をつくっている感傷というものはない。いい心持でした。
 夜は昨夜まで八時頃から十時頃まで、山本の近さんがカンカンカンカン木魚を叩いて二十人位集ってナムアミダをやって、沢山お酒をのんで、御馳走にあずかりました。あたりの田圃で今は地べたが湧き立つように蛙が鳴いています。電燈の光のあつい家の中では、ナモアミダブ、ナモアミダブといろいろな顔と声が合唱して、茶色と黒とで描いた一つの風俗画でした。御仏壇に紋附を召したお父さんのお写真が飾られているが、皆がナムアミダをやっている最中お母さんが思い出したようにナムアミダ、ナムアミダとお数珠をもんでいらっしゃる様子をみるといかにもところの慣習にしたがっていらっしゃるのがわかり、その退屈さを無意識に辛抱していらっしゃるのが分ります。落付かないで、居心地が納らないでいらっしゃる。これは結構なことです。健康ないきいきした心が動いていてナムアミから溢れているのは何よりです。
 あなたのお送りになったものは九日の午後につきました。こんなに心配せんでいいのに! とおよろこびでした。お礼の印刷物をきのう七十枚ばかり発送しました。あなたのところへも御自分の名で刷られたものがやがて届きましょう。
 さいわい、この四月五月でいろいろの整理がすっかりつき、家屋、自動車、煙草その他すべて達治さんとお母さんの名儀になっているそうです。名目上の相続をあなたがなさったわけです。すこし落付きになったら達治さんの分家届けをして、戸主の分だけ分けるようにしましょう。お父さんの年金は六月六日迄の分、恩給は半額(これは扶助)うけとれます。三百いくらかの簡易保険を戻します。墓地の入費などは不明ですが、今度の当座の入費と御|香奠《こうでん》がえしぐらいは、よそから来た分と私たちの分とで十分にすむと考えられます。お母さんは、二人がいなくなっても商売はやっていらっしゃるおつもりですし、二三年は何をしないでも食べてゆける自信があるからくれぐれも心配するなとのお話です。
 お母さんが、この数年来ずっと店をやっていらしたおかげで、いろいろ生活に変動が生じても一本の筋はずっと徹っているから、その点は実にようございます。只これからすこし暇がおできになる。その暇が、これからのお母さんに心持の上で影響することが大きいから、危険はそこにあります。よく内容づけないといろいろよくない。よくない可能は内外にみえる。何とかしてせいぜいすこしは面白い本をよむ習慣を追々につけていらっしゃるようにしたいと思って居ります。商売の性質にうるおいがない。幼い子供がいない。まわりに大したものがいない。しっかりしなければならない事情はお母さんに幾重にもかかって居りますから。
 私は今日からすこし落付くのですから、やがて御香奠がえしの買物のお伴などもして三十五日までいることになるでしょう。きのうは広島のTさんが又金銭上のしくじりをやったらしく、行方不明だとかで小母さんは只今そちらです。そっちももしかしたら何か御相談がいるかもしれませんし。
 達ちゃんは元気で炭鉱のある、そして有名な石仏のある大同の兵舎にいるそうです。日本人の商人も居り、茶わん一ヶ八十銭の由、カフェーもバーもある由。慰問袋をこしら
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