。
きのうは、じっと寝たまま、多賀ちゃんといろいろ話し、野原の家のこと、こちらのことなど話し、こちらの方も二人の男がいなくなればどうしても多賀ちゃんにいて貰わねばならず、多賀ちゃんとしては富雄さんが出たらあとの暮しをどうしようという心配がある。そこで、今は又養鶏がよくなっているから(支那卵が入らぬ)鶏を五十なり百なり飼い、やがてあすこへ何か出来たら人をおいてそれであちらの暮しは自転してゆくようにし、多賀ちゃんはとにかくどちらかが還る迄ここで手伝って貰うこととし、その代り今十円の給料を十五円にして、十円野原へやるとしても五円のうちは自分のものとしてためられるよう、それは私が当分持って出すことにきめました。お母さんとしては十五円はお出しになりたくないそうですから。私としてもその方が安心でよい。貴方もこの方法には賛成して下さるでしょう。そして、こちらの家計は、お店はやって行けることだし、負債は殆ど全くないのだし、銀行へ行っても大分丁寧な挨拶をお受けになるそうですから、決して心配はいりません。このことだけは安心してよい。話のときは、永年の生活の習慣から、他の半面ばかりを出す癖になって居られますが。二人の息子を戦争に出す母の心の苦しさは深いものであるから、どうやら暮しが根拠を保っているのが、せめてものことです。私たちとしても、何とかして力に及ぶことをするだけで、志を受けていただける範囲であるのは幸です。この十数年間の努力というものがどんなであったかとお察しいたす次第です。
お父さんは、ちっとも落胆もしておられません。あなたが六日にお出しになった電報は、昨十三日の午後につきました。いつぞやからお話しの、いつか払った六円若干の金の送り先は、もう覚えてはいらっしゃらないそうです。
広島という市は、戦争で次第に繁栄して来た都市です。独特な性格をもって居ります、その町の商人たちの気分が。島田というところも潤いのないところですね。かけ引きを主として暮す生活が人間を変化させてゆく力は非常に深刻なものです。では又。島田からの手紙はこれでおしまい。
五月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十日 第二十四信
やっと晴れましたね。青葉がすっかり重みと厚みとを増して、初夏の色になりました。十八日には、どうせ濡れついでに、あれからすぐ丸善へゆきました。そして mao の本をきいたところ、どこの支店にもなし。いつかついでに注文をしておいて貰うことにしておきました。けれども、これは大変時間的には当にならないのです。為替の関係で。そのときフォックスという英国評論家の『小説と民衆』という本を買いました。一九三五年以後の英文学、評論の変化を示しているものです。しかし、一寸序文を見たが、小説というものの存在意義を随分初歩的なところから主張して物を云いはじめていて、英文学における批評や評論の過去の性質というものを考えさせます。英文学における評論の伝統というものをすこし知りたく思いました。テイヌがフランス人であったということだけで、その面ではフランス文学の方が昔からすこし先を行っているのではないでしょうか。
牧野さんの本はお送りいたしましたが、スノウのも、私は大いによい妻としての心を発揮してあなたに先にお見せすることにして送りました。折角御注文のがないから、その代りに。十分その代りとなります。
十八日にはかえりに林町へよりました。久しぶりで太郎と遊び、国男にも会いました。このひとは、この間どっかの二階からころがり落ちて肋骨を痛め、名倉に通っていました。そしたら偶然糖尿になっていることを発見されて、すこし悄気ている。でも私はいいことだよいいことだよと云いました。すこしはそれでこわがって酒を減らせばいいのです。この前はもうすこしで片目つぶしそうな怪我をするし。
寿江子は熱川で山羊を飼っていると手紙が来ました。二十五日ごろ又一寸かえって来る由。
十九日は戸塚へ行っていろいろ話し、新宿のムーランルージュへつれられて行った。ここはいろいろ今日の社会相を笑いの中に反映していて面白かった。
鈴木さんのところへは明日行きます。そして万端相談いたしますから、どうぞそのおつもりで。
きょうは十時すこしすぎに、徐州陥落のサイレンが街じゅうに響きわたりました。達ちゃんの船はもう支那の近くにいるのでしょうが、どこにいるのかしら。ちょくちょく思いやります。私がそんなことを思いながらこれを書いている家の門には軒並みの旗が立っていて、物干しにはあなたの冬着が、名を書いたほそい紙片をヒラヒラさせながら干されている。
私は仕事に対する欲望が潮のようにさしのぼって来ているので、すこし肝のたった馬のような調子です。眼尻《まなじり》に力がこもって、口をむすんで。文学における全体と箇との問題などが、今日新しい機械論として出て居るのなどは何と興味あることでしょう。
『タイムズ』の文芸附録が今度スコットランドの現代文学の特輯《とくしゅう》を出しました。歴史的な小説をかく婦人作家が二人いることがはじめてわかりました。スコットランドはその自然の景観から、独特なロマンティシズムをもっている由。では又。セルと単衣羽織をお送りいたします。お大事に。
五月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十二日 第二十五信
きのうの朝、下へおりて行ってテーブルの上を見ると、三月十四日とした封緘がおいてある。三月十四日、三月十四日 怪訝《けげん》に思って手にとると封は開いてなくて、この間あなたが書いたよと云っていらした分でした。ひさが、「三月のがいま着くんでしょうか」と目玉をうごかしている。「そうじゃないよ、日づけを間違えていらっしゃるんだよ」と笑いました。
本当に久しぶり。そして、これを書くために私からのいくつかの手紙をよみ返して下すったということもありがとう。でも、この貴方の手紙は、或大きいことに心をとられていて、その心の一端をここへ向けて書かれているという調子があらわれていて、なかなか微妙です。そういう点も意味ふかい印象です。
私に下すった宿題は、力こぶを入れた答えをさし上げますよ、近日中に。この作品は仰云るとおり今日の生活の態度気分の上で少なからぬ意味をもっているものです。しかも純正なる批評をうけていないものです。大体この作者はその出発第一歩から、まともな批評をおそれるに及ばない、という条件から出ているので、独特な特徴をもっている。「僕の書くものが厳密に云えばなってないのを知っていますよ、しかしそれを突いて来る者はないじゃないですか」こう私に向って云った度胸のひとです。突いて来る者があっても判るものにしか判らず、その数は少いから平気なのです。まあこういう表現はこの位にしておいて、芸術上の問題としていずれ書きます。
泉子さんの体はいいあんばいにそれ程大したことはないそうですが、これまでの柏木の家は日当りわるく不健康なので世田ヶ谷へこしました。トマトの苗やなんか買って大いにやっている由。重治さんは市の失業救済の方からの口を見つけて日給一円三十銭で毎日通勤してナチの社会政策の翻訳をして居ります。世田ヶ谷から通うのは大変でしょう。
鶴さんの盲腸はおさまりました。私はあれを見ると自分の盲腸にも腹が立って、しきりにはと麦の煎薬をのみ、この頃はすこしましです。この間島田であんな無理をしたが、出なかったから。それに三共でうり出しているモクソールという注射液が大変によいそうで、これからすこしこの注射をやります、但注射なのでね。誰かにして貰わなければなりません。
栄さん夫妻、相かわらず、爽《さわ》やかに而して貧乏して居ります。手塚さんは島田へわざわざ達ちゃんの送別の手紙をくれました(前便で書いたと思いますが)
伝記が豊富な題目に溢れているのは全くです。実に豊富です。そしてそれをすっかり活かし切るようなものが書けるということの歓びは、決して単に箇人の才能とか学識とかの問題に止まらない。
御注文の本のリストの整理は、忘れずにやって置きます。
松山の方のことは島田からの手紙でもお判《わかり》になったことと思って居ります。そう云えば島田の家の井戸が改良されたことお話ししませんでしたね。風呂へ水汲みが厄介なのでコンクリートのタンクをポンプの上にこしらえて、こっちで水を入れておけばあっちは栓をあければよいようになって大した進歩です。
いずれ本人から手紙を上げるでしょうが雅子さんが近々結婚しそうです。対手のひとはまだ私の面識のない人です。細かい家庭のことも知りません。しかしそれで落付ければよいし当人はうれしそうにして自然な軟らかさを体に現しているからいいのでしょう。戸台さんも或は結婚するかもしれない。今年は結婚年のように皆が結婚するので、私はお祝いに忙しい次第です。
生活のやりかたについて私の分ったことをこのお手紙の中でも悦んでいて下すって大変うれしゅうございます。私は本来決して便宜的な人間ではない。又、食うため云々を、素朴に買いかぶるほど稚くもありません。土台、食うためになった作家なのじゃないのだから。世態と日常とは益※[#二の字点、1−2−22]各面から煩瑣《はんさ》になります。そして、私たちは健全な豊富な意味で益※[#二の字点、1−2−22]書生生活に腰を据えなければならないのです。歌舞伎座が立ちゆかず、やすい芝居をするようになるそうです。築地はハムレットを千田がやっている。ひさは姉が結婚して、農繁期になるのに田舎では雇う人手もないというので一・二ヵ月かえります。その代りにひさの友達で栄さんという子が来ます。この子とひさと二人で島田に行っていた間留守番をして居りました。ひさとか栄とかかちあう名はあるものね。但この栄はずっとしぼんで素質の小さい栄ですが。では又。この頃真白い紙はタイプライタアの紙しかない、何故かと思います。皆スジ入り。お大切に。
六月四日(消印) 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき)〕
このハガキは差入についての走りがき。
※[#丸付き一、322−4]帯は夏だけもてばよいつもりです。あの方が軽くてすこしはよいかと思います。※[#丸付き二、322−4]二枚の単衣のうち、紺の方は、些かおしゃれの分です。もう一枚の方がいくら洗ってもよい分。二日にそのことを忘れて申しませんでしたから。紺はそちらで洗わぬこと。※[#丸付き三、322−64]ああいう下にはくものはいかがなものでしょう、暑くるしくあるまいとも思いますが、試みに。手紙はこれとは別。
六月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月四日(白い紙特にこの紙は書きよい、タイプライター用ですが。) 第二十六信
さっき十二時のサイレンが鳴ったところ。(この辺のサイレンは、学習院前の小学校で鳴ります。防空演習のときも)テーブルの上の寒暖計は八十度。つよい風。この二階はいきなり硝子で、それをあければフーフー吹きまくって勉強出来ず、しめれば温室的な欠点がある。すだれや何かでいろいろ加工してある次第です。下で寿江子の咳払いがきこえる。ひさはきょう国へ一時かえりました。代りとして栄さんというひさの友達が来ていてくれます。栄だのひさだのって、縁があるのね、とこの間は大きい栄さんと大いに笑いました。
二日の日には、原っぱを横切って通りに出て、一寸林町へよって、上野の松坂やへ出かけて下着などを買いかえると、いねちゃんが待っていて、久しぶりに夕飯を一緒にたべ、いろいろ喋り十二時頃かえりました。あすこもずっと女中さんなしです。それでも幸、体も丈夫でやっています。私の留守にひさすっかり冬ものを乾しておいたので、昨日は貴方への小包を送り出してしまうと半日、入れかえをやりくたびれた。毛のものなど今年の冬はこれまでのようにないから虫にくわせまいとして。夕方ひさと栄、新宿に出かけ、寿江もいず、のろのろとして風呂をたいて入った。十時ごろから身の上相談のような訪問あり。今日はすっかり落付いて楽し
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