でいてよかったと思います。省線の価値は大したものですから。達ちゃん達もこれまでのようにはトラックが動かせますまい。紙がなくなったので今日はこれだけ。私は今文学史補遺的仕事をして居ります。半期ずつまとめての通観です。では又

 五月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡島田村より(封書)〕

 五月九日
 島田の家の表通りに近い方の二階の机でこれを書きはじめました。風が出て、曇天。鶏のコーココと云っている声や雀の囀《さえず》りが聞えるのに交って、竹の葉がカサカサと乾いた音を立てている。何だか暮のようです。この竹の葉は達治さんのためにあちこちからおくられた旗の竹の葉の触れ合う音です。きのうまでは二十何本か旗がズラリと立って、むかいの河村さんの家のとなりの小さい空地に大きい国旗が立ち、小旗がはりわたされ、こんな工合で賑やかでした。
[#図2、ポールに日の丸の絵。てっぺんから斜めに1本のロープが下がり、小旗が沢山つけられている]
 お母さんは又いつ私に来て貰わなくてはならないか知れないから、今度は来ないでもよいと折かえして電報をおよこしになったけれども、やっぱり顔を見れば来て貰ってよかったと大層およろこびで何よりでした。私は六日のふじ(午後三時)で立って、七日の朝八時すぎつきました。非常にこんでいて、寝台もとれなかったので、くたびれて、広島からのりかえてすいた車にのったら眠くて眠くて柳井線は眠って通り、フト 田 という字が見えるので、岩田へ来たかと、逆によみ直したら島田なのでびっくりして、ふくらがしたままの空気枕をつかんでトランクを車の外へすてるように出して降りました。ふーふーとなって、それでも可笑しくて、皆に吹聴したけれども、そう皆は可笑しそうでないので、又可笑しかった。
 御父さんは赤紙が来たとき、よかったと仰云った由。きのうは、出発の前、組合の人々が来て、女連は台処を手つだい、店と次の間とをぶっこ抜きにして天井へすっかり旗をクリスマスのように張りめぐらし、送別に来た人に御馳走とお酒を出します。父上を奥へお置きしては亢奮していけまいと母さんは、二階へお上げすると仰云ってでしたが、八日は朝から父上御機嫌がわるく、人々が集りはじめたら益※[#二の字点、1−2−22]怒っていらっしゃる。それで不図気付いて、「お父さんここで見ていらっしゃりたいのでしょう?」と私がきいたら合点をなさる。二階を指して手をお振りになる。それでこそと、お母さんも「ホウホウ、そいじゃここで見ていたいちうのだったか」とそこにずっとお床をおいたままで、ずっと混雑の有様をきげんよく見ていらっしゃいました。午後一時頃、土蔵の前のところで家内だけ、父上、お母さん、私、隆、達だけで小旗をもった写真をとりました。よくお父さん暫くでも椅子におかけになれました。お見うけしたところ、やはり大分御疲労です。ずっとおやせになっています。それでも、頬っぺたに薄すり血色があって、心臓のお苦しくならない限り、おとなしくて居られます。心臓の苦しいというのは、心悸亢進するらしいのです。脈が非常に速くなり、百以上。そして結滞もするらしい。そういうときは鎮静する迄お苦しみだそうです。きのうも夜あたりそういう風におなりなさるまいかと大分心配したが、いいあんばいに平静におねむりになりました。
 達治さんは元気で出かけました。けれども、何も先のことが判っているわけではないから漠然としたところもあって、きのうは島田のステーションの端から端まで溢れるような見送りをうけて出て行ったら、後から私は涙がこぼれそうでたまらなかった。東京からクレオソート丸を千粒ほど、キニーネを二百粒、クリームとなっている一寸した消毒薬を三チューブ買って来て持たせました。急に腹巻をきのうこしらえて、それもおなかに巻きつけてやりました。下じめも十五ばかり新しくつくってもって行かせました。七日の朝ついたら、何もしてない風で、お母さんは、何か薬ども持たしてやりたいが、と云っていらしたところだったので、少し持って行ってようございました。私は体に気をつけるようにとしか云いようがなかった。それにどういう生活があるのか分らないから、性的な悪疾についてはよくよく注意するようにと話したら、これは大変達ちゃんも思いがけないようで、しかも後々まで重大な意味のある注意だとよろこんでいました。誰しも戦さに出ると云えば玉や劔のことしか考えず、そのことのほかに終生を毒するものがあることを一寸考えない。そのため、外見は完全で大変なものをもってかえって、子や孫までえらい目を見る。一言でもそのことを注意出来てお互によかったと思います。手紙でもかけず、又お母さんの思いつきになることでもないから。八日午後二時四十何分かの汽車で広島まで行って、昨夜は宿やにとまるのだそうです。きょう(九日)午前九時に入隊。それからのことは分りません。隆治さんがきのうは柳井まで送りました。同年兵が今度は何人も出かけるそうで達治さんの乗る汽車にも沢山のって居りました。もし私のいるうち宇品からでも出るようでしたら、お母さんのお伴をして送りにゆきましょう。
 こちらのガソリンは一ヵ月千キロ平均のマイル数に対して、一日五ガロンつまり一五〇ガロンです。それでどうにかやって行ける由。バスなどは往復回数を減らして居ります。運賃ももとより高くなったが、トラックがどっさり徴発されてこちらにのこっているのは尠いので仕事は沢山あるそうです。従って、商売はやってゆける。どちらかと云えばよくやってゆける風です。けれども隆ちゃんが入営すると、一人も男手がなくなるから、自動車は休車にしておく計画だそうです。一人の日給が人夫で二円―二円五十銭で、仲士と運転手とをおけば少くとも百二十円はかかり、それではやって行けないとのお話です。又、雇人だけでは又別にいろいろお困りらしいし。こちらの物価は二三割上ってはいるが、東京程多角的に生活に迫って来ないようすで、こちらの景気はどうですか、ときくと、誰も一様にぼんやりと、大してわるいことはないと云う返事です。隆治さんの入営はまだ検査が、この二十日故未定ですが、今年は早く入営することになりそうな風です。すこしは稼げるときに、すっかり働き手をなくするので、お母さんもお辛い様子で、きのうも別に涙をおこぼしにはならなかったが、いろいろ仰云る言葉からまことに同情を禁じ得ません。そういう場合になれば、私たちも出来るだけのことは些少《さしょう》なりとも致しましょう。只、現在は私の経済力も到って小さくて残念ですが。
 野原の方は、あのお墓のある地域を覚えていらっしゃるでしょう? あの辺から(すこし手前から)ずっと海辺に近くまで何か海軍の方の大工場が立つのだそうです。七円であった地価が二十円となりました。そして、あの家の裏に十二間道路が出来るそうです。従って、野原の地面も予定の略《ほぼ》三倍の金を生じたので、すっかり御安心です。あちらの方はそういう思いがけないことで心配はいらなくなりました。冨美ちゃんは室積女子師範の附属高女の由です。女学校から引つづき小学校の正教員の資格をとるようにとあちらでも考えていらっしゃる。女の子でも一人しっかりさせておかなければあの家はあとでお困りでしょう。富雄さんも、七円から二十円へ着目して、この頃は外交員仲間をかりあつめて株屋をはじめたいなどと云っているそうです。外交員では、株の社会でもまともには通用しない存在だから、しっかりした店の店員として働くなら話は分るが、株屋をはじめると云うのは。どうも、実にどうも。お母さんへの啓蒙をこの頃やっているらしく、同じ興味をもたせようとして、送金の出来ぬ月はやすい株を上げておくからよく気をつけていて価の出たとき売るようにと云ったりしている風です。今日において価の出ていない株に価の出る可能はなかなかないことを私は常識から昨日もおばさんにお話ししました。母子ぐるみで株に気をとられたら、その結果はどんなになるかということを、私は遠慮なく申したので小母さんも涙を出して傾聴していらした。商売として考えず、儲け儲けとしてあせるからどうにもなりません。富雄さんはどんなに儲けようとどんなに損をしようとも冨美ちゃんと小母さんとの生活は地道に立ってゆくように計画して、そのような野原がひらけるなら又手頃な小店でもやってきっちりなさるよう申しました。
 私はこちらに十四五日頃までいるつもりです。目白はひさとその友達で留守番をして居ります。きのうは組合のひとが出発のあとで一杯やる、そのお給仕をしました。明日は恵比寿講とかがある由。どういうのかよくまだ分らず。何か組合仲間だけのもので三ヵ月に一度ずつあるらしい。お店には今様々の肥料が一杯つまっています。では又、お体はずっと順調でしょう? 呉々もお大切に。

 五月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 五月十四日 島田からの第二信 第二十三位?
 きょうは南がきつく吹いている日です。アンテナが鳴っている。隆治さんは明け方の三時三十何分かの汽車で広島にいる達治さんの面会に出かけている。野原の先に普賢様というのがあって、そのお祭が今日だそうです。貴方も覚えていらっしゃるかしら。いろいろの見世物などが来たのはこのお祭り? この間から仲仕に来ているリューさんという十八かの男は(これは朝鮮の人ではないけれども、そう呼ぶだけで字が分らない)大いにはり切りボーイとなってお祭りに出かけています。この男のおなか[#「おなか」に傍点]には切腹のあとがあります。親子げんかをして切腹したのに誰もとりあわなんだと笑っている。
 父上は今うとうと中。母上と多賀ちゃんとはお店で、高山の息子が出征するために送る旗を田中さんという人に書いて貰ったのをメリンスにはりつける仕事中。私は二階ですこし妙な顔つきでこれを書いている。というのは、十二日からひどく下痢をはじめて十三日一杯えらい目を見て今日はどうやらフラフラおきている、という有様です。原因はどうも、何とかいう家から端午餅をよこした。そのとり粉がわるかったらしく前の河村さんでも三人やっている。よそでもやっている。私が臥《ね》ていると、お母さんは気をもみなさり、食べないと気をもみなさり、なかなか食べずにねかしておいて下さらないから苦笑ものです。でも、これだけお喋りが出来るのだからどうぞ呉々もお心配ないように。私は十六日の寝台を買いましたから、体の工合さえ悪くならなければ十八九日にはお目にかかりにゆきます。
 この前の手紙で、十日に恵比寿講がある話をしました。あの晩は組合の人だけで、達ちゃんの世話になったお礼だと云って、十何種かの御馳走を拵え、お酒を出し、大いにもてなされました。私もお母さんのお尻にくっついていろいろやった。組合というのは十軒ずつなのですね。何とかいう理髪屋の爺さん、覚えていらっしゃるでしょうか? 妙にからんだ、もののわかったようなことを云うくだまき男。それが最後までのこっていた。
 十二日には、朝六時五十五分の汽車で広島にゆきました。お母さんのお伴をして。広島の第二高等小学校に駐屯していて、十五日頃には渡支するというので出かけたのです。達ちゃんは石津隊の本部付の側車です。これは、ソクシャというのだそうです。世間でサイドカーというもの。伝令づきの由。それに中隊長三人のうち二人は、同年次であった由、又伍長、軍曹などいずれも達ちゃんの教育を受けた初年兵であったそうで、いろいろ便宜の由。御二人は大安心ですし、何より結構です。十二日はその小学校の校庭で昼頃まで兵隊がいろいろやるのを見物し、連隊長の訓示というものも拝聴しました。それから分宿している箇人の家へ行って一休み。午後は六時頃までいろいろ不足の品を買いものして夕飯は軍曹殿と達ちゃんの食べるのを見物して、十一時三十五分で広島を立ち、こちらに二時ごろかえりつきました。お母さんは御自分の目で、軍装のととのった姿を御覧になったし、元気な様子を御覧になり仕度も兵としては相当手落ちなくととのえたので大分御安心でようございます
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