えてやります。又次便でいろいろ。お金が不自由におなりにならないでしょうか。もう少しの間もたせて下さい。お体をお大切に。私は大丈夫きょうからすこし沢山眠りますから。盲腸も大丈夫です。では又。

[#ここから2字下げ]
[自注4]きょう初七日――六月六日、七年間病床にあった顕治の父親が死去した。
[自注5]大建造物――野原の海岸沿いの畑地を広大につぶして、海軍工廠が建設された。
[#ここで字下げ終わり]

 六月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(はがき)〕

 六月十四日
 きょうはひどい雨です。二階の裏の障子をあけて見ると、段々になった石垣や田のところにいくつも滝が出来ている。うちには雨洩りうけのバケツたらいなど出しかけてある。その後お母さんもずっと御元気です。私はなるたけ三十五日が終る迄こちらに居るつもりで居ります。六月六日からかぞえると七月九日か十日です。達ちゃんから又五日づけのたよりあり、これも無事です。電報昨日着、非常におよろこびでした。

 六月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 六月十五日  第二十八信 島田からの第二信
 けさ、長いお手紙が着きました。私がゆっくりおきて、下へ行ったら「顕治が手紙おこしましたで、すっかり、ように心持よう書いておこしました」と云っていらっしゃいました、私も拝見しました。家じゅうがよんで、時には、あの電報など伝さんという人(古くから出入りしていた人ですって)にまでお見せになりました。
 お母さんもずっと御元気です。きのうのように大荒れに雨が降ると、ああきょうのような日でなかってよかったと云っていらっしゃる。永い間の御病気でしたし、かねて御覚悟のあったことだし、せめて隆ちゃんがいてよかったし、お苦しくなくてよかったし、お心のこりはないわけです。でも急にひまがお出来になって、今はあれこれとあとの始末でおいそがしいが、私としてはそのお暇が可哀そうです。良人というものは、他の何人によってもかえられないものを持っている、母としての面は発露されても妻としての面の心持はおのずから別であるから、私は又その点を深くお察しいたします。ましてお父さんはああいう方で、妻としてのお母さんの思い出は実に激しいものがあるのですから。
 ハガキに書いたように、私は三十五日がすむまでいることにしました。お母さんがその方をお望みですから。どうせおよろこばしたくて来ているのに二週間早くかえって心のこりをおさせするにも及ばないことです。お金をお送りいたしました。
 きのうはこっちはひどい大雨で、トンネルがくずれたり列車不通になったりしました。うちは、店へもし川水が上ったら大きなものを動かせないから心配しましたがそれはまぬかれた。けれども夕方下松へトラックで行った隆ちゃんがひどくビッコを引いてかえって来た。高山の石油のドラムカン(大きい円いの)をつんで行って、仲仕が荒れなのでついて来ず、雨ぐつがすべって左の足の拇指《おやゆび》のところを落ちて来たカンでぶった由、うち身になってひどくなっている。早速ヨーチンをかわせ、氷をかわせ、私と多賀ちゃんが看護婦になって手当をした。夜中三時頃おきて又氷をかえてやった。きょうは動かず臥ています、「臥ているのも辛うあります、お父さん大抵えらかったいのう」と云っている。でも大丈夫です。骨がどうということはないでしょう、五十貫近いものらしい。甲に落ちたら卒倒していたでしょうね。
 壺井繁治さんからは中村やのおまんじゅうを、手塚さんからは五円お供えを送って下さいました。それぞれお礼を出しました。三十五日には、おかたみ分けをなさるそうですが、お父さんは永年臥たきりでいらして着物もないので、おかたみ分けには新しいものをお買いになります。貴方に20[#「20」は縦中横]、私にも20[#「20」は縦中横]、多賀ちゃんにもその位、富雄さん10[#「10」は縦中横]、克子さん10[#「10」は縦中横]、という予算で、何か下さるそうです。あなたにはそのほかお父さんの立派な羽二重の紋付を下すってあります、こちらにとっておいて頂きますが。あなたのは秋にセルを買うことにしてあります。
 私はちゃんとした夏帯がないから買って下さるそうです。外のときでないから私もよろこんで頂きましょう。
 お母さんは欠かさず毎日御墓参になります、そして烏がちゃんとまっちょると云ってお土産をもっていらっしゃる。ちょっとしたお菓子や何か。こちらでは烏がお供えを啄《ついば》むと難なく極楽へ行けたという証拠としているのだそうですね、しきりに又烏がいたと云っていらっしゃる。
 達ちゃんには、近日慰問袋を送ります。広島へおかたみ分けを買いに出たときに。
 私はお母さんと条約をむすんでひる間は多く二階にいて読むか書くかすることにしました。夕方は下へ来て私の仕事の風呂タキをやります。それから夜は皆と喋る。そういう習慣にします。そしてゆっくり居ります。今はスノウをよんでいる。やりかけの仕事をおいて来たから。こっちでこれをよみ終るつもりです。四六一頁あるから丁度よい。ゆうべみんなで話していたとき貴方の小さかったときの話がしきりに出ました。貴方が小さくて、何かじぶくって泣くとお母さんが、もうやめいなと云うと、虫が泣かすんじゃああーんと泣いたという話、こういう伝説を御存知ですか? お祖母様が御秘蔵で、おおええええ顕治が泣くんじゃない虫が泣かすんだ、のうと仰云るのを覚えていて云ったのですって。私たちのように可愛がられて育った子供たちは、皆それぞれ伝説がありますね。私はあなたの赤坊のときの写真や小学生のときの写真や松山へ行っていたときの写真や、松山へはじめて行くとき着て行った絣《かすり》の着物まで知って居りますよ。絣のその着物は、今お母さんが召していらっしゃる。そして産衣《うぶぎ》の黄色いちりめんの袖まで見ている、いかがです? 私の赤いふりそでの産衣を見せて上げられないのは残念です。
 下で隆ちゃんが体の動かせない人と思えない大声で何か喋っている。今年の麦はわやです。雨が苅入時に降り人手不足で、沢山が畑で黒くくさっています。昔裏の田をつくったことがあるのですってね。稲苅りなさいましたか? しめっぽいからお体を呉々大切に、本当にいろいろ着る物を送っておいてよかったと思って居ります。では又

 六月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 六月十五日  第二十九信 第三信(島田から)
 西洋の人たちは白湯《さゆ》を飲まなかったかしら。――妙なことを考えるわけは、スノウが旅行して行って御馳走になる、鶏の丸煮、丸ムギのパン、キャベジ、ジャガイモ、粟、それを心からよろこんで食べたが、飲むものは熱い湯しかなく、死にそうにのどが干いたといいながら、それには手もふれられなかったと云っている。何と不自由なのだろうと考えて、そして思いかえしてみると、本当に白湯をのんでいるアメリカ人もイギリス人もロシア人も見たことはありませんでした。妙ね。気候の関係でしょうか。(下ではラジオが浪花節をやっている。)
 一日のうち何時間、こうやって新鮮な意志の輝きや青春の真の美しさを吸いこむ読書は、何とうれしいでしょう。おりおり感動のあまり頁の上を手で思わずなでながら読んでいます。
 十六日 一昨日から昨日の雨は、山陽線の岡山よりすこし手前のところで土砂崩壊による列車テンプクを起し、二重衝突が起って修学旅行に出かけた小学生を多く殺しました。きょうはすっかり晴れて、うちでは満帆を張りひろげたように白い洗濯物を干し、畑ではくさりかけている麦の手入れと始末に大わらわです。
 隆治さんはきょうもう仕事に出ました。私はタバコを売ったり、電話をきいたりする。こっちの電話は略語と専門語とがあるのでなかなかむつかしい。アクセントがちがうから、地名がはっきりしなくて。
 今午後の二時頃。お母さんとたくさん洗濯をした多賀ちゃんとは下で昼寝。きょうは面白くて四十三頁もよみました。
 十七日 きょうはさわやかな上天気です。家じゅうのぼろや、ぼろでないものを出しかけて洗ったり、干したり、はたいたりしています。私も頭をプラトークで包んで、二階の掃除をし、東の日の一杯当るところへ夜具を皆ほしたところです。稲子さんから御香奠を送って下さった。明日は二七日です。早いものだと思う。前の河村さんの長男は工場に通って旋盤ですが、足の踵が三四年前から痛んで、この頃はひどくなっている由。どうもカリエスらしいのでレントゲンで見て貰うことをすすめ、きょうあたり徳山の病院へ行ったでしょう。達ちゃんの折と今度のこととで、近所の人々に顔なじみができてすこしは話をする人々もふえました。河村さんのところでは娘さんは二年ばかり前に結婚して(写真師)一人子供があり、二人目がこの間生れて程なく死にました。今、兎をたくさん飼っています。兎は湿気に弱い由。達ちゃんのとき生れた兎の仔を、うちの猫の玉がとって自分の仔に食わしたことがあります。うちの玉は七年とかいます。あなたも御存じかしら。
 明日は自転車坊さんが来ます。これはお母さんの命名。野原のお寺に二十三四の役僧がいて、この人は自転車にのって来るからです。
 今十二時半。エー、キャンレー、キャンレー、ああキャンレー、キャンレー、キャンレーと呼んで通る。毎日、晴天だと今頃。これはキャンデーのことです。氷菓子だそうです。この辺の子供は、東北地方のようにとうもろこしや枝豆はたべないのですってね。こういうものをたべる由。
 十八日 きょうも晴れて東からすこし肌寒い風が吹いてくる。きのうのラジオで東京は平年よりずっと冷える由。工合はいかがですか。冷えをお腹に引込まないようにくれぐれ願います。
 きのうは夕方御飯のとき(この頃は大てい七時すぎ。日が長いので)お母さんが大助さんの生れた家[自注6]へ炭を届けさせるついでに、螢の工合をきかせ、どっさり出るという報告で、私を螢狩りにつれていって下さいました。八時に内藤のタクシーを呼んで、お母さん、多賀子、私、河村さんの細君と総領息子と金物やの娘がのり、助手台へうちの倫公が、すすはきに使いそうな笹っ葉をくくりつけた竹をもってのった。そして、うちのすぐそばのふみ切りからもう一つ大きいのを越して、その次の一寸したのを越して四ツ目のすこし手前、桜がずっと生えている手前の辺の橋のところへ降りました。その黒川さんという家が一軒ぽつんと樹かげにみえ、あの辺は大変陰気です。汽車が暗い山と山との間に火の粉を散らし、おそろしい音を立てて、いかにも「火車的」に通るのも恐ろしい。その次の踏切でつい二日ばかり前人がひかれたりしてなお更。
 この辺の夜の景色など覚えていらっしゃるかしら。螢は二十日ばかりおくれているそうで、大してもいなかったが、私ははじめてあんな冴えた大きい螢の光りをみたし、数をみました。私が糸で縫った紙袋にそれでも四五匹とって、かえり路は家まで二十丁余歩いてかえりました。なかなか印象的な散歩でした。多賀ちゃんが、夜の黒い大木がこわいこわいというのが面白かった。たしかに圧迫的です。私は子供の頃、開成山の暗い夜、竹やぶのわきを通るのがこわくて、おぶさっている背中でしっかり目をつぶっていた。多賀ちゃんが田舎でありながら、狭い小さい町暮しの感覚をもって成長していることを面白く感じました。
 読書はなかなか有益です。歴史の細部に亙っての特性が、実に感じられ、思索を深く長くひろい規模に刺戟される。私はこのおかげで大分ものが判りました。毎日四十頁前後きっとよんでいる。文学の問題としても種々面白いヒントがあります。下では自転車坊さんのおとき[#「おとき」に傍点]のために、ステッキになりそうな筍を煮ています。
 私は明日あたり野原にゆき、珍らしく泊ってくるつもりです。そしてついでに虹ヶ浜や室積やを見て来ます。高いところにあるあなたの小学校も。何とかいう小学の先生(うるさい程ほめちょる、と多賀ちゃんがいう)は今室積で代書をしていられる由。もちろん訪問の
前へ 次へ
全48ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング