ために室積にゆくのではありませんが。――
 大いに熱中して読んでいる私の様子、やがておなかをかき出して、いきなり着物をぬいでノミをつかまえようとする私。ノミは多くの場合私より迅《はや》くて、とりにがし、ペコペコとイマヅをまいて又坐りこむ私。二階の部屋(東向の方)の様子と、そのかっこうとをお考え下さい。なかなかの戯画よ。非常に知的な漫画です。
 この手紙は一先ずこれで終り。あとは野原その他の様子になります。今光井から電話らしかったが、何かしら。明日ゆけなくなるのかしら。
 むらのある気候ですからくれぐれお大切に。この手紙は凡《およ》そ本月末か来月初めに着くのでしょうね。あなたはこちらの私へ書いて下さったろうかどうだろうかと、そう待ちかねているのでもないがちょいちょい考えます。では又。本当にお大切に。

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[自注6]大助さんの生れた家――難波大助の生家。
[#ここで字下げ終わり]

 六月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡光井村より(封書)〕

 六月二十日(一九三八年)山口県光井村にて  第三十信
 野原の家の奥座敷で、東の方の庭に向って障子も縁側の硝子戸もあけ、机を出してこれを書いています。
 きのう十一時すこし過のバスでこちらへ来ました。途中でドラムカンの空《から》をうんと積んだ隆ちゃんのトラックとすれ違い、私は分ったがあっちは分らなかったらしい。
 こちらの家は去年の春だったか、台所と風呂場をすっかり改造して便利になっています。昔からの台所のところ、御飯たべる板の間、覚えていらっしゃるでしょう。あの土間のつき当りのところを(店《みせ》から入って)区切って、すっかりコンクリートのいい風呂をこしらえ鶏舎のガラス窓を十分つかって大いに文化的! になって居ります。四角くちぢまった土間に、ちいさいがしっかりしたへっついが新しく出来て、今にポンプもこっちの内へ引き入れてすっかり濡れずにやれるようにする由です。
 丁度ポンプのところから(油しぼりの小屋のこっちの端)隣りの大工さんに土地が売られて居り、油しぼり小舎も大工さんのものです。今は麦の苅ったのと板とが薪木とつみこんである。
 大工さんは、表の倉のところ、あの古い二階から風呂のあった小舎をこめて百坪ばかり 1100 で買って子供の小さいの二人と細君とで、一寸見るとキャンプ生活みたいな暮しかたをやっています。それでも菊を大変上手につくる由。今は朝顔の鉢が沢山あります、おじさまの御秘蔵であったシャボテンのこちゃこちゃした小さい鉢はやっぱり棚の上や庭にあります。
 こちらの家は静かで落付いて、本当に仕事がしたい気になること。一寸、いつかゆっくり来て、ものを書いて、折々は海辺へでも出て見たいようですが、もう間もなく例の建造物が出来、人口は五万になるそうですから、迚もそんなしずかな空気はなくなるでしょう。うちの裏の一番はずれのすぐそばに十二間道路が出来るそうです。表は三尺とかへずられて八間通りになりますそうです。そして、自動車は柳井室積間を疾走し、新都市計画が実現されるわけです。野原の土地の買上げは終結して、お寺で調印したそうです。
 きょうお墓詣りをして見たら、買い上げられた土地というのは、お墓へゆくあの細い畑の間の道の中程に、右手に入るうねった枝路があったでしょう? あのすこし先からだそうです。お墓のはるか手前からです。昔は綿が植えられ、やがて田になったこのところどころにはねつるべの井戸をもった畑も、間もなく高い塀にかこまれてしまうわけです。田の中をこいでもよいという条件で、農民たちは最後の田植の準備中です。牛をつかって黒い雨合羽に笠をかぶって一生懸命雨の中を働いて居ります。売価では、新しく元の面積はとても手に入らぬそうです。
 奥の間の次に(六畳)月三円で小学校の十九歳の女教師が間がりをしています。大変に若くて、きのうは、この四月同期で卒業して就職した友達が来て、いろいろ可憐なお喋りをしていたかと思うと、すぐいかにも若い娘二人の眠っている寝息がきこえて来ました。やがて一人が大きい声で「手をあげて」とねごとを云いました。こちらの蚊帖の中で私は思わず破顔いたしました。すこし話の内容がちがうだけで、ひさと栄(うちの若い人たちよ)とがかたまっているのと似た感じで、何だか可愛いの。勤めにまだ馴れず辛いことが多いらしい。「けど誰にも云えやせんやろ、だから親には何でも云うの、書くと気がすっぱりするさかい書いてしまっちょるの」と云ったりしています。この人がいるし、隣の大工さんは、二階の方をすこし直してぴったりくっついて住んでいるし、決してこちらは淋しくありません。田布施の先にオゴー? というところがありますか? そこの娘さんの由です。兵児帯《へこおび》をしめています。私は、バラの鉢を縁側のそばへもって来たり、今はマークトウェーンの小説をよんでいます。野原の方には本棚があって改造で出した『世界大衆文学全集』などもあります。昨夜は冨美ちゃんにアンクルトムスや紅《べに》はこべその他似合わしいものを見つけてやりました。よそのうちへ行って本棚があるとうれしいこと。
 永くなりすぎそうだからこれでおやめ。明日はふっても照っても室積へゆきます。そしてあさっては島田へかえります。きっとあっちもすこしお淋しいでしょうから。しかしそれにお馴れなさるようにとも思ってすこしはこちらにも泊るのです。そちらでも雨が降って居りますか? こちらからのたよりにも、小さい事実というか出来事というか一杯つめられていますね。達ちゃんは無事です又便りあり。

 六月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 六月二十一日  第三十一信 光井
 午後四時。やっときょうは晴天です。裏からとって来た矢車草の碧い花が机の上のコップにさしてある。この辺の花の色は実に鮮やかで、野生の月見草、小町草、その他本当に自然の濃いはっきりした日光の美しさを思わせる色をしている。この辺の家や墓地にはいろんな花がつくられている。島田には花を作っているような家は殆どない。
 机の上にすこしばかり樹の青っぽい蔭がさしていて、一寸何だか夏休みの或日のようです。そして、すこし、郷愁にかかっている。原っぱのところにずっと見える塀や、工場のような建物や、そこにある一つの顔に郷愁を感じて居ます。私は七月十三日頃にかえります。近頃三十八日以上四十日も留守をしたことはありません。随分珍しい。
 きょうは野原の海岸へ初めて出ました。ここは虹ヶ浜とちがって、松林が二重になっているのね。そして手前の古い松林のところはいかにもねころぶに心持よそうです。浜へ出て、舟へこしかけて、叔母さまと二人黒い洋傘をさして沖を眺めていました。浜そのものは虹ヶ浜の方が清潔であるし広いし遠浅でようございますね。この頃は浜防風のとうがたって、丸い手毬《てまり》のような実をつけている、実を覚えていらっしゃるかしら。かえり路は、葭のずっと生えている小路へ、郵便局の酒樽つくっていた建物の方から出て、郵便局の隣りの雑貨店で隣の大工さんにやる赤坊帽をかいました。この雑貨店のおっかさんはいかにもがっちり屋の顔をしているが、店に十一年とか経つ大シャボテンが二つあって、びっくりするような花を咲かしていました。
 ここには小さなカニがいますね。今庭のカタ木の古い幹《みき》のところを一匹はっている。さっきは石の大手洗鉢の水の中に奇麗《きれい》に浮いていた。
 六月二十二日
 一時四十分のバスでかえりました。この頃はガソリンの倹約で朝十一時十何分かの室積行が一時四十分野原を通り、あとは夕方の六時すぎ。間で二度下島田へかようだけです。農繁期なのでバスは行きかえり殆ど一人。あちこちで田植最中です。野原附近の買われた土地は、島田川のそばまでで、三十万坪だそうです。都市計画はこの前柳井と書いたでしょう? あれは間違いで徳山室積間です。
 二十三日
 隆治さんが昨夕びっこをひきひきかえって来た。左脚の上へねぶとが出来ていて痛い。「ひとが、横根でもふみ出したのかと思いよる」とふくれていましたが夕刻秋本へ行って切って貰って来た。寝冷えもしていて、きょうは両方で休み(仕事もないので)私共三人は(母上・多賀子、私)徳山まで出かけました。三十五日のおかえしと慰問袋へ入れるもののために。十二時頃から雨になって、母様だけ下松でおり、あんパンやらマンジュウやらの手配をなさり、五時頃かえり、それから又お墓へお詣りなさいました。雨が降っても何でも四十九日までは毎日参るべきだとのことで、なかなか大変でいらっしゃいます。私は折々御一緒にゆきますが。
 二十四日
 達ちゃんから航空便で手紙が来ました。父上のおなくなりになったことを知らせたのへの返事です。やさしい心持やこれまで尽すべきことを皆つくして来た安心とが溢れた手紙でいい手紙でした。あなたからの電報をよんで(文句をうつして隆ちゃんがやりました)感動した心持をもつたえて居ります。こうして、皆遺憾ない心持で貫かれているのは本当に何よりです。
 午前中かかって慰問袋をこしらえました。航空便でやろうとしたらそれは駄目な由。いつ着くことやら。出動準備中だそうです。
 隆ちゃんまださっぱりせず床についています。疲れも出たらしい。私もすこしあやしいので、今はお母さんの羽織を拝借して着ています。午後からは久しぶりで親密な読書にかえります。
 福岡に(入りぐち)おりを[#「おりを」に傍点]という寺があって中気のための名灸がある由、いつか昔、あなたがすすめてお母さんを出して上げたのに、次の朝行かずに戻っていらしたという故事のあるところ、あすこへおつれ申そうかと云っているところです。お母さんには御丈夫な上にも丈夫でいていただかねばなりませんから。おなかはこの気候でも大丈夫でしょうか、呉々お大切に。近ければ一寸かえるのに。では又ね

 六月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 六月二十六日  第三十二信
 さっきから机の上やトランクのところやあっちこっちさがして、がっかりして坐って下から持って来たこのペンで書きはじめました。ペン先を紙に少し包んで持って来たのが、この間野原へ行くとき机の上を片づけ、何かと一緒にまぎれてすててしまったらしい。御愛用の金Gがこの頃益※[#二の字点、1−2−22]大切になって来たので箱から分けて来て却ってバカをしてしまいました。
 さて、十八日づけのお手紙をありがとう。お体のことについて書かれているところが消してある。あなたが何か書きかけたのを消していろいろ気をつけるとかいてだけある。それは、大変私の想像を刺戟しているのですが、どうなのかしら実際のところは? 本当に大丈夫でしょうか。少しよろしくないがいろいろ気をつけているというわけでしょうか、そうとしか考えられないので気がかりな次第です。どうぞどうぞお大事に。呉々いろいろとお気をつけて下さい。
 きょう野原の叔母さん富ちゃんと一緒に広島へゆかれました。金談のため。お手紙にあることは、口があきる程申しますが、もう云われて聞くという段階は一家がその気分から失っています。小父さんが株でなけりゃいけんと云われてはじまったのだそうだから。それに、ごくひくい常識というか何というか、ああいう人々には、例えば私が金を大儲けしている上で、そんなことは下らんと云えばフウムと首をかしげるが、私たちのような生きかたをしているものが云ったって、それは道理だが[#「だが」に傍点]と現実にはききません。実験をしばしばやってそういう結論に到達しています。
 隆ちゃんはおできと風邪で床に三日ばかりついていたが今日はもう働きに出て居ります。このひとは律気者でよく働いて、やさしい心をもっています。
 達ちゃんへの手紙に書いてやることよく承知いたしました。出かけるとき繰返し申しましたが又云ってやりましょう。酒は既に身についているし相当遊びもする。遊びを知っているんだから心得もあるようです。しかし念には念を入れて申し
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