hさみたいなものはとけて、流れて、両岸にはささやかながら花も咲こうというものです。
 表のこと。上出来と云って下さって大いにうれしゅうございます。借金の下手な云いわけには、笑って、一言もない。
 それから、一日のくらしかたの割あて、ね。勿論あれは正常な一日の大略であって、昨夜みたいにたまにはおそくなったり外出したり、午後じゅう出ていたり、あります。大体会が激減した。一般的に、それから私としての条件的に。作家は腰ぬけでね、雑誌にパタパタものを書かなくなると、気味わるがって、大抵作家の会へも呼ばない(中野も同じ)。だからああいうのが一週に僅か二日で、あと五日は番外つづきというのでもないのです(座談会なども全くなくなっているから)。生活は大変ちがって来ています。この年に入って、グーと急転回しているわけです。
 環境についての補足。そうね。静止的に書かれていました。あの糸が流れ入り、この糸が流れ出るという風に描かなかった。この足かけ四年間(九―十三)の推移について。九年はいつかも書いたように一月十五日頃から六月十三日まで不在。十三日は母の死んだ日です。私は心臓に氷嚢を当てていた、その前から。その年は十月頃まで林町に暮しました。それまで東信濃町に住んでいた国男夫婦が林町へうつって来た。父は、それを間違ったと云っていた。国男たちの暮す気分が気に染まないので。ゴタゴタする(けんかではない。生活の気分が)国はラジオをガーガーやる。寿江子はアコーディオンをブーブーやる。迚もやかましくて閉口して、十月頃から私は上落合の家をかりたわけです。あの夏はなかなか忘られない。父が、夜よく涼みに私をつれて行ってくれた。車で、国に運転させて。よく歩けなかった七・八月ごろ。「お前の一番行きたい方は、こっちだろう?」そう云って、よくお濠《ほり》ぱたにつれて行ってくれた。柳の木の下で遠くの灯を見ながら風にふかれたりしてね。そしてかえって来た。もとより袂の端だって見えっこありはしない! その時分は、やはり、今近しくしている人たちが、林町の家へも来たり、その時分鈴子さんがいて、よく来た。Aね、エハガキあげた、あの人など、良人とのことで苦しんで来たりした、私が寝ているそのわきで涙こぼしたりして。
 上落合の家は、独りでした。林町から臨時に手つだいをよこして貰ったりして。栄さんに毎日世話になっていたのはこの時分から、翌年の(十年)の十月下旬まででした。上落合の家は、五月の二十日ぐらいまでしか持てなかった。上落合の家へ越した年の十二月初めに、夕刊で、市ヶ谷へいらしたことがわかった。その晩あわてて、着物買ったり何か栄さんとした。あの時分は落付かず。詩人の病気は益※[#二の字点、1−2−22]悪くなって来ていたし。仕事としては、バルザックの一寸した研究(リアリズムの解釈の誤った解説に盛につかわれていたから)小説「乳房」その他。この時分はまだ徳さんの現代文化社があったり『文学評論』がともかくあったりした時期。五月から十月下旬まで淀橋。この間に『冬を越す蕾』が出版されたわけです。翌年の三月二十五日? だったろうか、一応かえる迄に一月三十日に父が没した。その前後のことは別にいろいろの点からかかれていると思います。
 国が、家の主人となって、例えば戸塚夫妻、中野さん等来てくれても、一つ家に私がいるのがいやと云うのではないが、持ちこむものがいやなのね。一緒に食事するのがいやだと云ったりいろいろで、咲枝は板ばさみだし、私は我慢ならぬ。てっちゃんがかえったのは引越し前の冬だったでしょう。池さんの細君との間が破れたのもこの頃でしょう。
 目白へ家をさがした心持は、思い出一しおの故です。Sさんはその年の九月ごろだったか公判のために上京して、戸塚の下宿にいました。ちょいちょい出入りしていて、お金にこまり、ぜひ東京にいたいというので、私はすこし助ける意味で、新聞の切ぬきの整理をたのんだり、本のカードの整理をやって貰ったりして、十円までのお金あげていた。もとから智恵子さんを知っていたのだそうですね。そっちはそっちで進行していたわけです。家をうつるとき、あっちへ一緒になる迄、田舎の送金がなくなったからという理由で目白に来て、二月まで二ヵ月いた。二月に職業を見つけてアパートにうつり、それからこの八月結婚するまでズッとアパート。一月の終りか二月の初めごろ既に先の話は破れたのです。対手の人はこの家へ二度ぐらい来ています。その二度目ぐらいのとき、私がいつまでS子さんをここにおく気かときいたら、それは本人に云うとか云って、かえるの待っていて、ちょうど稲ちゃんが来ていて、変にきまずくて一座白けていたら、外出から戻ったS子さんをつれ出して、話をことわった由。
 この人は、それから一遍宮崎龍介の母を訪問したとか云って一寸よった。
 これらのほか、若い女のひとたちが何人か新しく環内に入って来ている。ずーっと眺めかえすと、主な糸はやはり三、四本ですね。
 てっちゃんの結婚は、てっちゃん流で、友人の誰もよばれず。独特にやっている。旦那さん二階で御勉強、細君は下でコトコト働く。「清子さんの趣味は何?」「サア、働くことでしょうか」そういう工合でやっているし、これからやってゆくでしょう。あの人はそれで落付けるのです。そういう種類で初めて落付ける。そうらしい。家はまだ一度も訪ねず。
 徳さんが戻る迄は、歌子さんも折々見えました。この頃はもう安心して、たんのうして、忙しく勤めていて見えませんが。製本して貰う女のひとなども去年の秋ごろからの知人。動坂の家へ遊びに来ていたような親娘のひとたち、まるで会わない。メイソーさん二度ぐらい会ったきり。細君はまだ。コヤさんは結婚したとききましたが(メイソーさんから)やっぱり知らず。会いそうな人が却って会わないのは、いろいろと面白い。母娘さんたち、私は大して会いたくもないが。人々のうつり変りの中で、思い出す毎に切ない気のするのは、詩人の細君が、消息不明なことです。どこかへどんな男かと消えた。可哀相に。何も分らないひとだから。
 さて、余り長くなるといけないから、これで一区切り。この頃は大変風邪が流行《はや》ったそうです。喉が痛いと合本もって来た女のひとも云っていました。きょうは、でも本当におそい秋らしい。青空の前に鋼色の欅の梢が奇麗です。この二階はすてがたい眺望あり。では又。

 十一月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月八日  第七十信
 智恵子さんがなくなった通知のハガキを貰ったのは六日(日曜日)の午後八時ごろでした。ああ、到頭と思い、すぐ出かけてお通夜をしようと思った。けれども、まざまざと、最後に会ったときの体も心も実に苦しげであった様子、心の底までうちあけたくて、しかも自身の愛情の誇りのためにとりみだすまいとしている懸命さ、その力一杯だった顔が浮んで、私が行ったら、本当に寝ていてももう一ぺん生きて来て、「ね、私到頭死んじゃったのよ」と云いそうで、迚も横えられてあるようなところへ行けなかった。そう一言云ってホッとしたいためにだけでも、もう一遍おき上って来たそうで。この十ヵ月間の溜息をしん[#「しん」に傍点]からつくために。
 この七年の間の生活と努力とを、最後までまともな場所へおいて理解するために、彼女は実に健気《けなげ》に生きました。そのことを考えると涙をおさえることが出来ず、お葬式のときも泣けた。あちらのお母さんが、「本当にすみませんでした」と云って写真をやったことなど、それだけ切りはなすとすこし芝居がかっているようにきこえるおそれがありますが、これまでの彼女の眼と微笑を見て来たお母さんとしては自然な情愛であったと思います。あの苦しそうな微笑と燃えて乾いて輝いていた眼付とは、小さい顔の上で、万言にまさるものを語っていたのだから。僅かの人が知るきりのしかも健気に生涯を闘い抜いた女性でした。
    ――○――
 さて、きのうはあれから東京堂へゆきました。『新支那現勢要覧』は持っていないし、どんな本か見るためだけにはとりよせることも不便という話。(きょう、文楽堂へたのんで見ました。明日持って来れば見て、よかったらすぐお送りしましょう。明日もって来なければ、やはり返品不能の本である由)それから丸善へよって「ドーデン」をきいたら、あったので一冊とり。本店へ行って見たところ、御注文のものは例によってなしです。ただ『移りゆく日本』の著者はリデラーという人で、その人の『世界経済に於ける日本』というパンフレット式のものがあって、かなりひろくよまれた由なのでそれをとりあえずお送りして見ました。内容のたちがそれで凡そわかるでしょうと思って。『移りゆく日本』は、十一、二円の本ですし又すぐなくなるのだから予約しておきました。『印度年鑑』は本年のはもうなし。来年も入るでしょうと云っていました。予約しましょうか。その方が入手たしかです。『わがオーストリア』は売れたと見えてなし。『ナチとは何か』はユダヤ人間題の側から扱っているらしい、著者ユダヤの人です。どうかしら? この間調べたときはなかった『支那統一のとき』When China unites という本があり、近代の推移から西安事件などにもふれているらしい。興味がおありになりそうでしたら、すこしよく調べましょうか。
 きのうはかえって来てから、その小さい本を送り出して、ニューヨークの出版屋へカタログ請求の手紙をかいて、夜は『家族』の最後の部分を読み終りました。非常に爽快なよろこびをもって読み終りました。現実に対する深い洞察から生じている結論、そして確信は、何と人間を鼓舞し、自身の合理性への欲求の自然であることを一層深く肯《うなず》かしめるでしょう!
 きょうは、午前中、一寸したものを書いて、それから計画していた新しい本にとりかかるため、使を出したりしたら、それがなくて、昨年私たちの生活の満五年の記念のためにあなたが下すった『二巻選集』を、とりよせたことになりました。一巻の方に伝記が集められていて、それをよみはじめました。きょうはこれをよむ。面白い。ところどころでクスリとしたりする。濃い黒い髯のために娘たちがムーア人とあだ名で呼んだこの父親は、若者たちに対して「勉強するように追い立てたばかりではなくて、彼は又我々が勉強しているかどうかを確めた」などとかかれているところを見ると、そして、その答えかたに決してゴマ化しを許さなかったと云われているところをよんだりすると、私の心では特別の微笑がこみ上げざるを得ません。全くよく御承知の通りのわけで、もと、一つ二つ伝記としてよんだことがあっただけ故、矢張り有益です。
 今私はこういう計画をもっています。十一月一杯はよく精を出してこの種の読書をつづけてゆき、十二月に入ったらこの一年のしめくくりの意味で、ずっと書こうとしていた今日の文学についての覚え書を書こうと。たのしみにして、今年の初め書いた百枚ほどの「今日の文学」からすこし進歩したものをかきたいと意気ごんでいます。前の分と比べて、自分でどの点がましになっているか意識されるだけ、自覚した努力で書いて見ようと思って居ります。ただ楽に、いわば自然発生的に書くのでなくて、ね。
 葉山嘉樹が「幸福」という作品をかき、その中の百姓に「幸福とは結局自分ひとりが、はたにどのようなことがどうあろうと、その日その日をどうやら過していれば幸福ということになる」と云わせているらしい。川端康成がそれを評して「こういう考えはこれまでたくさんの人がもっていたが、文学にこういう形で現れたのは珍しい。だが、幸福とは果してそういうものか。そういう状態で幸福と云い得るか」と疑問を発している。この疑問でさえ、ある感動を与えている有様です。又、暮しの急激な変化は、歴史の転換を感じさせるので、若い作家の間で祖父、父、現在、と三代の推移を描く欲望がある。彼等は、それを短い小説に、家系を主として書いている。ここにも非常に興味ある諸事情が蔵せられているわけです。そういうテーマを何故百五十枚ぐらい
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