lえられたんじゃないんですか」「そういうの、わるいと思う。だって、現実の気持のそれを、ああいう形で、あんな重大な、妻のああいういきさつに描いて卒業するなんて!」
 作家のエゴイズム以前にある男のエゴイズム、それを感じていない作者。菊子さんもそれには異論なかった。
 人間のいきさつ、心持、それを人並より潔癖であるとされている作者でも、環境とその自省の鈍磨、いい痛棒のくらわし手がないと、こういう極めて人間の真髄的な箇所で、潔癖の反対になる。そういう致命的な鈍りが生じていることを志賀さんは知っているだろうか。
 この頃のチミモーリョウの跳梁《ちょうりょう》をいやがって「文士[#「文士」に傍点]は廃業だ」と憤然としているという面だけで、一作家としての彼は語りつくせたと云えません。又こんな数になってしまった。では又
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 〔一枚目欄外に〕
「奥さん、そんなの読んで黙っていられるかしら」
 よまないのですって。一度何かよんでコリてから。
 石坂洋次郎論の「若い人」の中で江波という娘を見る評者の甘さから、ケンカをやる戸塚の夫婦の生活と、何たる相異でしょう。
 〔十三枚目欄外に〕
 前便のタテの封筒がいかにもいや。東京堂と丸善とへ出かけるから、そこで何か見つけて、それから出すことにします。
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 九月十九日朝 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月十八日  第五十四信。
〔前略〕昨日あれから戸塚へまわりました。おなかペコペコで御飯をたべ、終ったら鶴さんがやって来て、やはり御飯をたべ、そちらの噂やいろんな話。『朝日』朝刊に石坂洋次郎が長篇をかくことになって四五日前作者の言葉なども公表された。そしたら、けさ突然、坪田譲治「家に子供あり」というのに変更されている。何かあった。「若い人」がいけないということになったのだろう。この間内務省の懇談会で、またたびもの、遊蕩《ゆうとう》もの、女の生活の放縦を描いたもの(女子学生もこめて)はいけないというおふれが出たばかりです。
 出かけようというとき鶴さん一寸一緒に新宿へ出ようと云い、私はおみやげのバタ、稲ちゃんは不二《ふじ》やでお菓子を買い、不二《ふじ》やでコーヒーをのむのに(鶴さん)つき合って、それから市ヶ谷へ行ったら六時ごろです。
 病人さん[自注13]は、けさあなたから親切な手紙を貰ったとよろこび、私たち二つの顔を見たらいかにも嬉しそうでしたが、瘠《や》せて、弱って、ひどい。八貫位の由です。夏じゅう九度から八度の間を行っていたところへ、(発熱)この間の大嵐のとき屋根が吹きとばされて、煤水がダーダー流れ出したので階下へおりようとしたら、梯子がその水で滑って、頂上から下へ落ちた。「そのまま喀血《かっけつ》でもして死んだら余りにみじめだと思って心配しましたが、いい工合におさまって」とおっ母さんが話されました。二週間近くも大家さんの二階にいたのですって。家から食事をもってゆき、便の始末をしながら。さぞ、どちらも大変であったでしょう。今は朝九時ごろ悪寒がして発熱する由。家の中の様子、病人の顔つき、こちらも息がつまるようで、苦しく、苦しかった。療養所のおそろしい話を、黙っていられない、という風に話されました。「どんな病院よりおっ母さんのそばがいいから、ここへおいて貰います」いろいろな感情があるらしいのです。「こんなにおっかさんてありがたいものだとは知らなかった。きょうだいと云ったって、手拭一つしぼってくれませんからね。」
 病気はこわい。いやだ。しんから病気はしまいと思います。この間の手紙で、私が本気で云っていたこと、サナトリアムはいやだということ、あなたはそれについて返事をまだ下さらないが、本当にはっきり覚えて承知していらして下さい。ね。盲腸で切るとかそんな或時期だけのは入院が勿論いいが。
 日本の療養所(市の)は、まだ実に低いところにあり、病人の箇々体質、病状などこまかに扱わず、病気と精神力との関係など全く無視されている。そのために例えば、八度熱があればどの注射、しなければならない、いやでも。そして、智恵子さんなどのように重態になったりする。その他の療養所では南湖院その他菌のあるものは入れないのだって。何のために建ててあるのでしょう? では病気を享楽するひとのためにあるというにすぎない。ブラブラ人の社交場にすぎない。(富士見などのように)ああ丈夫でいること丈夫でいること!
 息のつまったような気持で出て、空気が吸いたくて神楽坂まで歩いて田原屋で御飯をたべました。それから歩いて稲ちゃん死んだユーゼニ・ダビの「北ホテル」という作品の話を熱心にして、(その作品のよさと思われている弱さについて。弱さにとどまっているこの作者の勤労者性について)矢来下からバスにのって、かえりました。
 ダビについての感想は「くれない」の作者としての感想として特に面白かった、というのは、私はこの愛する作品については、いろいろの感想があるのです。作品が十分の構成をもっていないということ、構成のないということは、この作者のどの作にも或共通したところであるが、事件、心理のいきさつを、よって来っている現実としてつかんで整理しきらず、はじから現象に即したように描いてゆくため、構成がなくなり、語りつくされない部分が出て来る、そんな気がつよくしていたので、ダビの「北ホテル」の感想は二重に心をあつめてききました。買っておよみ下さい。婦人の作家が、その生涯のうちに、皆が、いくつか、どんな形でか、この作品のようなものを書かなければならず、書いているということ。そういう点からもこの作品は或本質的な意義、価値をもっているもの故、もっと十分書きつくせない事情のあるのが、惜しゅうございます。
 俊子さんの昔の作や「伸子」や「小鬼の歌」の夫婦の生活や「乳房」やそして「くれない」や同じ作者の「わかれ」という短篇などと合わせよみ、考えると、女の生活をうち貫いて流れている歴史の波濤の高さが胸にひびくようですね。きょうは久しぶりで林町へ出かけます、うちにいる栄さんは、兄が入営で一日いないから。

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[自注13]病人さん――杉山智恵子。
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 九月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月十九日  第五十五信(封筒の糊がわるくて張り直しをしました。)
 きょうは、大変に珍しいところから手紙を書いて居ます。林町。食堂のテーブル。午前十一時すこし前。
 きのう林町へ来て見たらお客がいて、いろいろゆっくり話したかったので泊り、けさ国男さんが出かけてから、南の縁側ですこし日向ぼっこをしながら本をよみ、食堂へ来てこれをかき出しました。
 話というのはね、あのひとの生活ぶりについてこの間から考えていたこと。咲のいないときすっかり遠慮のない表現で一度話したいと思っていたので。
 私が早寝早起きを励行しているというのにはすっかりびっくりして、敬意を表しました。その実、本人は(私は)まだそれが習慣として身につくところまで行っていないから、まるで早ね早おきに使われて、夕飯を終ると宵の口から眠る時間を気にして滑稽しごく。しかし私はひとが笑ってもこれはやります。どうしてもやります。このねうち[#「ねうち」に傍点]の感じかたは、或は貴方がお考えになるより深いのではないでしょうか。
 咲枝、太郎は二十六日ごろかえって来る由。太郎すっかり田舎言葉で「いがねえか」など尻上りに云っている由。
 この間私に国府津へでも行くか? とおっしゃったとき、二日ばかりも、とお云いになった。二日、という区切りかた、二日いたから? 一ヵ月もと云われず、二日もと云われた方、笑えるようなところがあって、しかも私にはいい心持でした。ゆく行かないにかかわらず。
 国男さん、安積《あさか》へ誘うが、やっぱり行きません。東京の日々の暮しで、きっちり習慣をつけてしまわないうちから動くと心配ですもの。今のところそれが仕事だもの。ああ、林町へ来て、又よふかしをしたのじゃないか、と思っていらっしゃるでしょう? 顔が見えますよ。例のレコードをかきましょう。
 きのうの朝までは前便に書いたと思いますが
  ひる十一時四十分 六・四 夕午後五時半 六・三 夜九時 六・六
  食事 十二時半       食六時半       就眠九時四十分
 今朝起きたの七時半。
  七時四十分 五・八 ひる十一時十五分 六・五 夕六時 六・六 夜 六・五
  食八時すこし過     十二時半        六時半     九時半
 きょうはおひるをたべて目白へかえります。渡辺町へまわろうとしたら留守故。
 十日間の温度表を見ると、段々頂上が下って来ると共に最低との開きも減り、面白い。十五日以来から最高が六度七八分ですね。今月の初めごろ、すこし熱っぽい生理的な理由もあったけれど。
 ○『プラクティカル・エンサイクロペディア』昨日丸善から送りました。英語のドウデンは中身はすっかり同じです。ドイツ語のは二冊か三冊あるのですってね。英語は一冊にまとめられていて、やっぱり初めに人間老幼男女、つんぼの女などあり。ですからおやめにしました。フィリップ・ギブスの『国境を横切りて』(アクロス・ザ・フロンティア)というのがあり、買いたいようでもあったが、おやめ。四五ヵ月前七円五十銭であった本がダラの変化で昨日は十二円八十銭です。大変なかわりかた。このような金で外国旅行をやるのは気骨が折れて彌生子さん夫妻も大変でしょう。もっとも旦那さんの方は外務省からですが。ケンブリッジとオックスフォードで能の講演をする由です。ギリシア文学の知識で、この人は欧州人にわかる方法で世阿弥を説明するのでしょう。ギリシア古典悲劇の様式と、能とはその独唱とコーラスと身振り的舞踊において非常に共通している。観念ではなく、様式で。ギリシアのは、合唱で、主人公の運命に対する哲学、客観的観察(判断)とでもいうようなものを表現している風です。
 そんな、私も常識としているところをもっと広く、且つこまかに話すのでしょう。息子が交換学生として行っているイタリーにもゆき、ギリシアもまわって来て、かえりはアメリカを通る由。朝四時ごろJOAKから国際放送をしたりして活動です。
 九月二十一日に、つづきをかいて出そうとしたところ、羽織紐のことについて、ちがったように書いておいたので、きょう、二十三日書き直し。
 今、貴方へのフランネルねまきとおこしの小包をこしらえて、出させてやって、羽織をはおって二階へ上って来たところ。今年はじめての羽織です。秋のうつりかわりは春から夏へのときとはちがって、こちらでも心元ない。夜着のこと、先にもそういうことがあったので又さっきかえる前、確めて訊いて見たら、十月に入らなければ入れない。どういうのかくわしく判らないが、そうです。十月に入らなければ衣類のセルも夜着も入らない。肌寒い方へ向うときは、こういうことで何だか落付きませんね。早く十月になってしまえばいいと思う。フランネルや羽織で、調子をとっていらして下さい。
 二十日には、そこからのかえり、雨中を渡辺町へまわり、買物に一緒に出かけ、かえりかけたら漱石の未亡人というひとに出会いました。古風なひさし髪に一糸乱れず結び上げ、りゅうとしたお召、縫いのある黒地の帯、小柄だががっちりとみが入った風采《ふうさい》。金の儲かる役人の奥君という風格で、漱石の作品にあらわれている妻君の反映や鏡子述「漱石の思い出」、松岡とのことその他思い合わせ、いかにもとうなずける様子です。長男が、中学の三四年生のとき、お出入りのいんちき音楽師に大天才とおだてられ、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァイオリンの修業にドイツに出かけました。いんちき士が、お伴にくっついて行こう魂丹[#「丹」に「ママ」の注記]であったらしいが、それは実現せず、若い息子だけが行った。が、行って見ると、元より上手に弾く日本少年の※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァイオリン
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