竄チている」(これは角の果物やの若い衆の表現。)私も立ち止ってそれを仰ぎ見て、その若い男に訊きました。「どっちが敵機なんでしょうね」「サア迚も見えませんね、白い布の尾をふき流して居りますそうですが」暫く立って見ていたら「あすこへバク弾を落したよ」と、呑気《のんき》そうに太った防護団のおっちゃんが云っている。別にかけ出す人もいない。やがてヘルメット帽をかぶった団員の若い一人が白い紐のついた毬《まり》を手にもって、どこが変ってるんだろうというようにして交番へ渡しました。その毬がバク弾なの。やはり駅の周囲ですね。パンとトマトを買って横丁へ曲って来たら、さっき一機[#「機」に「ママ」の注記]うちをしていたのか別なのか相当にスピードの出ている速さで前後して追うような勢で西方へ翔《と》んでゆく。一種の緊張がその機勢にあって、私は地べたの上から樹の梢越しに見上げつつ、兵士たちが演習のとき、突撃のとき夜などつい気が入りすぎて負傷者を出すということを思い出し、地上に見物人を意識しているこれら上空の人の心理を一寸想像しました。
今夜で防空演習もすみます。
A・Kさんの小説が久しぶりに『文芸』に出た。小さい作品であり、云々するほどでないと云えるかもしれないけれども、作者も昔からの友人たちも、特別な心でこの作は見ました。△氏という△大の△△さん門下の哲学の人が、あのひとの作品をよんで、何とかしてこのひとを助けて立派な作家にしてやりたいと思って結婚を申し込んだ。私などが外国にいたとき。
A・Kさんは、自分から進んで結婚の対手をさがし出す人でもないし、間違ってでも掴《つか》んでゆく、そういうたちでもないので、この申出を考えて結婚した。
七八年結婚生活をしたわけですが、その△さんというひとは、(ここまで書いていると、玄関が勢いよくガラリとあいて、その音に合わしてはあとがしずか。あらあら健造さんがお使いに来ました。あした智恵子さんのお見舞に誘った返事をもって。丁度又空襲ケイホーの間なので、健ちゃんと物ほしにのってすこし飛行機を見て、本棚のところへ来たらそこの岩波文庫のうらの目次をくっている。「なんなの?」「南総里見八犬伝買ったんだよ」「ふーん」と私はびっくりして「わかる?」「わからないとこ母ちゃんにきく……でも余りわかんないから新八犬伝を買うんだ」そして下へ来て豆たべながら「あれ書いたひと、めくらになったんだね。でもどうしても書こうと思って、妻に話してかかすけれど、妻は小さいとき学校へ上んなかったから字を知らないのを教えて書かしたんだね」「ああ。でもそれは馬琴のつま[#「つま」に傍点]じゃない。息子の嫁さんだよ」「ふーん」豆の小さい包みを下げて靴音たかく帰ってゆきました。健造は九歳か。十かしら。少年の面白さたっぷりです。何て男の子は面白いだろう。太郎はどんな子になるだろう。自分の子に男の子を考えると何だか笑えてくることがある。あなたにこの興味がおわかりになる? 自分たちの子というものを。健造が、妻ということばを云うときその響は大層|清冽《せいれつ》でありました。無色透明で。智恵子さんのところへ行くそうです。
さてつづき、良人であった人は芸術家の生活というものの急所がわからず、勉強な女大学生(受動的な)のように考えていたらしくて、この次この本よめ、この次これ、そう云われても作家になっている人なんだから、よかれあしかれ内面の必然があって、ハイハイよめないときもあり、そういうのが、女って結局しかたがないものだ、という結論を引出すことになったらしい。八九年の後、この春離婚して、そして、この作品をまとめた。フランスの婦人作家列伝ていうのを見たら、すこしましな仕事している人って皆、普通の意味での結婚生活やっていないって書いてあったんで、何だか元気がついちゃったようで、と遠慮深く云っていました。フランスでまでもそう? 私はこの頃こういう話は、もとよりも切ない心でききます。ものでも書こうという女は、その性格が妙なところが一応書く力となっているのもあるが、友人たちをみれば、やはり感じること深く、愛することの深いところから書いている。そういう女が、結婚生活、家庭生活で両立せず、様々に傷つくのは、本当に辛い。まだまだ、女が人間らしい積極さから行動しても、結果は受け身にあらわれ、数え立てられる世の中だから、女の生活をいとしく思うことが深くなるにつれ、自分の娘というものを、女親には娘がようございますわ、という気分で見られなくなって来るのですね。少年を見て感ある所以です。
きょうは、かえって髪を洗いました。それでも大丈夫。十二時半に昼飯前六度三分。
何と、じき枚数が重なるのでしょう。一日のうち頭の中を通ることは果してイクバクでしょう! このごろは、貴方への手紙しかものを書かない。糖の出ない安心はこのように心を活溌にさせています。現金で極りわるい位。
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〔一枚目欄外に〕
この頃、大きいたっぷりした封筒が実にない。そのために手紙出しおくれて、しかも、こんなので
〔十一枚目欄外に〕
体温表
十三日の夜九時頃七・一
十四日
朝 7.30 五・七
昼 12.00 六・三
夜 9.00 七・一
十五日
朝 7.00 五・八
昼 六・四
夜 9.00 六・八(これは初めて六度代になった夜)
十六日
朝 7.00 五・七
昼 六・三
夜 9.00 六・六
十七日
朝 7.00 五・六
昼は外出でとぶ
夜 10.00 六・七
十八日
朝 7.15 五・六
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから2字下げ]
[自注12]詩人の細君――今野大力の妻。
[#ここで字下げ終わり]
九月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十六日 第五十三信
文学についての話。つづき
アンナ・ストロングがね、三年ほど前に書いた自伝があります。徳さんが貸して呉れました。I Change Worlds という題。自分の棲《す》む世界を、古いのから新しいのへかえるという意味でしょうね、きっと。一人称をもってはじまる題をつけることから、何だかしっくりしなかったが、すこし読んで、不思議な気がして来た。これはどういうのだろう。ストロングとはこういうものの見かたをするひとか、それで、どうしてと、働きさえ不思議に思われて来た。「人間というものは行動するものである」そんな風にはじまる。
「理性とは行動を、あとから理屈づけるものである」云々。そういう調子でこの書若し諸君の人生指標となれば幸、と云った前書きがあり、さて、「自分は、アジアの奥の故郷から、西へ西へと追われた部族の出である」と云って本文に入っている。猶太《ユダヤ》人ということでしょう? スメドレイという人は、おそろしい程、むきつけに書くひとです。昔の作品では、殆どアナーキスティックと云える位のむき出しで、人生にこわいもの、見栄を知らず生きて行く女の、おそろしい率直さと、行動の真の意味を客観的につかみ得ていないところから、アナーキスティックな風になってさえいる。ストロングは正反対ですね。「我」という意識の流れは孤より衆へ通じ云々と。迚も読みつづけられない。どうして、そしてどの範囲で英語新聞の編輯などやれたのかと、計らざる感服をしました。
第一書房からバックをうけて、あの売行を保とうとして出されたミッチェル女史の『風と共に去りぬ』Gone with the Wind。『タイムズ』の文芸附録に、本やが Going, Going! と増版を広告していますが、日本ではそれ程の売ゆきを示さず。(三冊で略六円になる本)これは面白いと思う。第一、南北戦争というものは日本の文化にヨーロッパ程感情のつながりを持っていない。第二に、現今ヨーロッパの文学は、大戦以来引つづいてジョイスの「ユリシーズ」風、ハックスレイの「双曲線」風の心理分析、潜在意識分析文学の時代から一歩動いて来て、一方ではロマンスの大復活流行、一方に新たなリアリズムへの努力が擡頭している。これは、昨今の世の中から実にわかりますね。ロマンスが特に歴史的背景をもつものに傾いているということもわかる。「風と共に」は前者の風潮にのっているものです。だからあっちで売れる。『タイムズ』の推セン書の中に今週文学ではロマンスが(名は忘れた)あり、次の週は一匹一片の男(?)と云うようなリアリスムの作品が推されている有様。『タイムズ』の文芸附録でさえ、という現実の力の面白さがある。
――○――
志賀直哉の「暗夜行路」は、昨年終りの部分が出来て、前・後、完結しました。前篇、昔の茶色の本でお読みになりはしなかったかしら。
この間後篇を読み、漠然と、わからないと思うところをもっていたのが、私自身の最近のいくつかの経験や自省によって、その点わかったところがあって、それが話したい。特に語りたい心持がするのは、私が最近経過した内部的な大掃除みたいなもの、或は嵐のようなもののおかげで、すこし古葉が落ちて、ものがはっきり見えはじめた部分があって、そのおかげで、漠然納得ゆかない気持でうけていたものを、はっきり捕え分析し得るようになった。そこが意味深長で、きいて欲しいわけなのです。
「暗夜行路」の主人公謙作が京都で鳥毛立屏風の絵にあるような女(この絵覚えていらっしゃるかしら。大どかな、素直な、気品ある若い女です。裾を左手ですこしかかげているような、元禄風の)を見そめて、そのちゃんとした娘と結婚して、生活しはじめる。その妻である女は、挙止、言葉づかいよさの諸点が現実の作者の妻である婦人を、まざまざ読者に思い浮ばすように描かれている。夫婦の生活は苦労なく、例のこの作者らしい雰囲気で、友人と花をやって遊んだりし、その間、妻が札を間違えたのを、或る狡《ずる》さかと思っていやな気がする、それが妻に反映して悄気《しょげ》るなどのニュアンス。この作者が人間の心持に潔癖と云われている定石的モメントもあり。その妻が、妻の従兄に当る男と、良人の旅行中過ちを犯す。その描写が、私に腑に落ちなかった。男 青年が、花をやって徹夜して、荒れつかれた神経の反射で、我むしゃら頭からつっかかってゆくような面は描かれているが、妻である女が屈伏するモメントがわからぬ。子供時分二人で、意味は分らぬが、ある遊びをしたことなど作者はもち出しているが、リアルでない。そんな女としてでなく描かれているのに、天質のいいものをもつ女として描かれているのに、良人を愛しているのに、そこでそう脆《もろ》いのが合点ゆかぬ(女として)
良人はそれを過ちとして、女の或場合の災難として、腕力的にかなわない災難として許す。
この点もどうもわからなかった。花の札を妻が間違えることにさえ、ずるいのかと心持わるくするのなら、こういう場合災難として見るしかなくたって、そのような災難を生じるサーカムスタンスをもつことにもっともっと苦しい思いをする筈だし、根本的に云って、そういう条件での災難[#「災難」に傍点]と云い得るだろうか、原っぱで五人に囲まれた、そういうのでもないのに。どうも腹に入らぬ。
主人公は、これで自分たちが不幸にされては余り下らぬ、そう思い、ひっかかっている気分を直しに大山へ旅行して、そこで所謂自然の療法をうけ、やがてそれにこだわらぬ気持までひろがる。そこで終り。
そういう苦しみを夫婦で凌ぐのに、景色の変った山へのぼって暮して、それで転換するのも何だか腑に落ちぬ。
谷川さんその他、夫婦愛の醍醐味として讚えているが、わからない。根本に分らない。それでこの間、菊子さんが来たとき、それを話しました(弟子だから)。すると、「暗夜行路」は自伝風な作と思われているが、実際はそうでない。架空のものの由。
「じゃ、猶変だ。だって一般に自伝的なものとしているでしょう? その作品の中に、誰がみたって奥さんそっくりと思える人が描かれ、そういうことがあれば、そうかと思う」「奥さんは再婚の方ですから、先生の心にある或気持から、
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