ヘ、天才の問題と大変遠いし、技術の到達点にしろ少年自身絶望するようなものであった。金はある、子供である。ベルリンにはヴィクトリアという日本人の税関と称するカフェーがある(西洋のカフェーは或とりひき場)。ヨーロッパ戦後である。一九二九年に私がベルリンの国立銀行の広間の人ごみの裡にいたら、ちらりといかにも見たような顔が視線にうつった。漱石そっくりの道具立てと輪廓とで、而もその内容なく、背のどちらかというと低い背広の体の上にその特徴ある顔で、じっとこちらを見て佇んでいる、言葉をかけるほど互に知っていない、だが、お互に誰かということを知りあっている、そういう眼ざしで。漱石そっくりで漱石ではない息子の顔立ちは、伯林《ベルリン》の雑踏をこえて、今も目にのこって居ります。一種異様な寂しさと哀れさとがあった。その息子が、何年か前に帰りたいと云ったとき、この剛腹なる母は、それを拒んだらしい。今になって、つれてかえることが話しに出ている由。
(ああ、いやな匂い! 午後二時すぎるとお隣りで煉炭風呂に火をつける。煉炭のガスはきつくてトタンの煙突が一年でくさる程有毒で、実にいや)
二十二日には、かえりに三越へまわり、あなたの夜具のことを致しました。ステープル・ファイバアというのは何と重くて、変にプリンプリンとしていて、ひやっこいのでしょう。そういうのでなくて木綿七分、スフ三分という布地があったからよかったけれど。綿も白一号というのはなくて白二号。二流品だけ。ウンと上げて儲けるつもりで問屋がいたところ、価格の統制で、儲けられないので、よいのはひっこめて二流品をのみ出している。買う方がたまらぬ。
多くのことが、こういう調子ですね、家賃のことをはじめ。絹ぐるみで生活する人々は決してこまりません、いかにたかくても正絹もある、真綿もある。
夕刻の七時からさち子さん夫婦のおよばれでお茶の会。戸塚の夫妻、壺井さん夫妻。私たち(というのは二人の名のお招待が来ましたから)、その他の友人三名。八重洲園。佐藤俊次というのが良人の名です。自然、鶴さん、繁治さん、私たちが喋り、いろいろ面白かった。かえりに数奇やばしのそばの寿司をたべて、山の手電車の一方の坐席にズラリとピクニックのように並んでかえりました。
――○――
朝、真先にお早うを云うのはなかなかようございますね。私の早起きの習慣は、こういう御褒美つきで奨励されているわけです。
これから、いつも二十三日に花を買おう、私たちの花を買おう、そういう気持がそちらも持っていらしたということ、面白いこと。
今年のあなたのお誕生日には何をしましょう。折々たのしみにして今から考えています。去年私たちの五年の記念にあなたが書いて下すった字で私の本のための印《いん》をこしらえた。一つ捺《お》してあげたの御覧になったでしょう? はじめての印は父がこしらえて呉れた、水晶。あれは一生使えるように堅いツゲの木です。今年のお誕生日の記念に何をしましょうね、蔵書印をこしらえようかしら。又あなたの字をつかって、並べて、ぐるりを工夫して。それともこれは八年目(足かけ)のおたのしみにとっておきましょうか。八年目の二十三日には一まわりして週日も同じになるから。帯だけはもうきめてあります。昔の女は帯を縫ったのね。
そう云えば実録文学の山治君、段々妙な実録で「池田成彬」というシナリオをかいたりするが、この間「坂本龍馬の妻」という脚本を書いた。お龍という女。女に生れて貴方にめぐり合えないなら、男なんかに生れたくはございません、などという云いまわしは粗末であるが、洒落た女の機微をつかまえているようだのに、このお龍さん、第一幕では不二洋子の劔劇に似て居り、幕切れは、或種の神がかりであるというのは、何と笑止千万でしょう。
「沃土《よくど》」の和田伝、島木健作その他何人かで、有馬農相のお見出しで、農村文化の立役者となり、作品が帝国農会の席上引用され、和田氏は日本の政治の明朗化の実証と欣喜《きんき》して居ります。二十名の作家が漢口を描きにゆきました。平服に中折をかぶってステッキをついて写真にとられているのは菊池寛一人。役者一枚上なり。「田園の憂鬱」は軍装して二千円すられた。葦平サン茶色背広で(上海で)これら名士と一夕の歓を交えに現れています。
午後の計温が示されていないと云っていらしたのは十七日(土)でしょう? 戸塚と病人見舞いに行った日でしょう、あのときは午後はとばしました。林町へまわったときは計温しましたから。
二十日。この日もかえりに渡辺町であったから十一時半ごろの分はとらず。
朝七時二十分五・四 夕方五時半六・五 夜九時半六・五
食事七時三十分 六 就眠 一〇
二十一日
朝七時半 五・五 ひる十一時半六・三 夕五時半六・六(夕飯六時)
食事 七・四〇 十二時 夜八時半六・三
朝は七時から七時十五分すぎまでの間に床から出ます。それから身じまいして、計温して、食事して、仕度して、家を出るのは八時十五分過までのうちです。原っぱを通って、受付へ行って、多勢待っていなければいつも大抵九時十五分前ごろ、待合にかけます。これはおきまりの時間表で、ずるとしても五分から十分の間です。土曜月曜はこの刻限から二時間前後待って本を読んでいるわけ。この次の月曜は一奮発してすこし早くして見ましょう。この切手お気がつきましたか? 民間機をつくるためだそうで、国男のくれたのを見本に。おかぜを呉々大事に願います
九月二十五日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月二十五日 第五十六信
きょうは可笑しい借家人物語を二つ。
きのうひるから殆ど二ヵ月ぶりで栄さんのところに向って出かけました。七月中旬ごろからマアちゃんが工合わるくしているし、繁さん勤めはじめたし、細君はいそがしかったし、病人のベッドのわきで喋るのもいやであったから、お互に。
マアちゃんよくなった。それに、私は、ああ二日つづきの休み日なんて大したことない、実に大したことない。こういう休日が愉しく充実するために私にはどうしたって必要な顔と声と笑いとがあるのに! とふくれていて、思い立って栄さんのうちに向って出発した。
小滝橋へ出るまで、下落合駅のところを道普請していて、すこし広い道が東中野から聖母病院の坂まで貫通しかけています。工事のはじまったのはもう古い。事変で久しく放ぽり出されてセメント樽がコロがっていた。再び着手して、もうすこしで完成。新道へ出るところ(旧道から)「ひどくゆれますから御注意下さい」と婦人車掌が呼んで、赤坊おぶっている女の人に「お子さんのおつむり御注意下さい」それ程。うっかり舌でも出したらかみ切ってしまいそう。小滝通りでおりて、坂をあがって行く。トタンやの店に張紙あり。
「風水害で破損した箇所修繕のためブリキトタン御入用の方は、もより交番より許可証お貰いの上おいで下さい」云々。秋の日にそういう字が照っている。もすこし行ったら「十月一日より商店法実施、皆サンお買物は十時まで! 演習十九日、二十六日」と立看板が立っている。
青年学校義務制(十四年から)のための青年調査の注意がケイ示されている。
そういう街頭の光景を眺めて、横丁へ入って行ったら、見たことのある爺さん、袢テンすがたで荷車に何か積んでいる、壺井さんの家の石段々の下で。おや、と思い格子のところへ行って見たら、まあ、引越しのところです。
「なんて、あやういところへ来たんだろう」
「あしたのいまだったら、どうしても運送やさんが、くり合わせつかなくて。」栄さん単衣一枚、手拭をかぶって、せっせとお握りを握っている。繁さん、真面目のような、我ながらびっくりしたような顔で、口を尖《とが》らせ乍ら、一生懸命本をつめている。前日にきまったのですって。大嵐の夜、二階が吹きぬけのない袋六畳だもので、雨戸をとばされ、ガラスは破れ、今にも飛びそうなので、畳をめくって夫婦で夜明け迄押えて遂に倒壊を防いだ。おまけに、この間の地震で、もう迚も辛棒ならず。あなたにあの珍しい家を見せられないのは夫妻の遺憾とするところでしょう。畳のベコベコなのはあなたも島田で、お驚きになりますまい。しかし、ああいう折れかかった鴨居と隅の落ちた床。決して女の力では明かない玄関の格子というような物狂い的家屋は、おそらく話で人を信じさせ難いものでした。
大家さん、株式暴落まではクリスチアンで(細君)栄さんが「怒っても子供にああいうやさしい声でものが云っていられるって、どういうんだろう」と、足かけ四年感服していたが、去年あたり破産に瀕したら、人生の波の方が真率で、その細君をきわめて人間らしいものに戻しました。大家さんのおかみさんらしいものに戻した。新しい家が九分迄かりられそうになると、わけのわからぬわけで駄目。ははアと心付いて、新しい家は急にきめてしまった由です。
お人形、時計、そんなものを持って、折からの雨中、傘を並べて新居へ行ったら、天井も床もしっかりしているので「ああ、これで安心した」と大笑いしました。「天井も菱形じゃないからいい」と私が云って又笑った。
中野区昭和通一ノ一三です。
――○――
けさ八時前に御飯たべていたら、大家の女中さんが来て台所で何か云っている。大工さんをよこしますそうです。大工が来て、世話焼の七十何歳とかの爺サンも来て、玄関のカマチと四隅の柱、台所、湯殿のカマチと直すという。応接室の建ましは断念と見えたり。何しろ縁側がない家だから、大雨だと外の羽目から雨がしみて、室内の欄間の壁が大きい地図のようなカビを出している。「どうもこれじゃ応接間をつけたところで……」と留守の間に云っていた由です。一寸ついている竹の袖垣をその形ごとはずし、ジャッキでギューと持ち上げて四本の柱の根つぎをし、あっちこっち家が真直になったために壁が落ちて、夕刻は大工の方はおしまいというスピードでした。
何という日本の家の便利さ(!)でしょう。何たる積木《つみき》如きものを建物と称すことでしょう。土台五六寸新しい柱を立てて、ジャッキで家ぐるみもち上げていた柱をストンとおとして、自然の重量で、くっついている。クサビもなければ、かみ合わせもない。そういう柱! で支えられている、この地震国の家。家をハウスと訳すのみならず、ホームでもあるし、命の箱でもあるし、私は手早さに感歎すると同時に、アナトール・フランスが「昔物語」で云っているような都市の歴史的な豊富さ、住宅の持つ歴史的内容というものが、こういう建物で間に合わせて雨露を凌いでいる習慣の中には、決してその興味ある堆積をなし得ないのを、実感しました。ゲルツェンの家を作家クラブにもなし得ぬ。卵橋(ポンヌフ)の河岸につらなるパリの十六世紀からの住居の美もあり得ない面白いものではありませんか。感情のアシの短かさ、厚さの浅さ、ニュアンスのうすさ。アメリカ材だと、この家のように十年経つと木がひとりでにくさって来るのですって。(この家どこもかしこも米材なり)都市としての江戸の形成の過程と東京の変遷を考え、一種異様な感がします。昨今、王子に近い志村の町に工場がどっさり建つ。その地形《じぎょう》のために泥をナラす。下から出て来るのは竪穴の住居遺跡です。やっと農業がはじまり、竪穴が集まって聚落《しゅうらく》をなしかけた時代。沢山の土器、鉄片の少々などが出る。そういう土の上は、昔ながらの方法による畑であったのが、いきなり最新式工場と変りつつある。畑の野菜は腐っている、ガソリンが少くてトラックで運べないから。私たちは百匁十五銭のトマトを買っている。(大きいの一ヶです)実に錯綜した線ですね。
――○――
今何をよんでいらっしゃるかしら。私は体に力が湧いて来た感じです。大事にして、来月からはすこし仕事はじめます。こういう力のある健康感、ぱっちりみ[#「み」に傍点]のいった感じ。うれしい。胸のはり出すような。二十三日に出した手紙に計温かいたから、これにはやめます。九月
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