ュのが或は私の体にもいいのではないかという気がして居るから。その上、少くとも私には大変にくつろぎになり、たっぷりさになり、生活のめ[#「め」に傍点]のつんだ成長の感じで、この一月からの緊張したものが健康にほぐされてゆく工合です。毎日会えるようになって私は自分が肩を楽にしているのにびっくりしました。ああやっぱりこんなに体をかたくしていたのかと思いました。十八九の頃からともかく自分の書くもので生活して来た人間が、その道をとざされたということは決して容易なことではない。神経にもつよく影響します。私は神経衰弱にならぬときめているから、それにはかからないが、知らず知らずの間に不自然な緊張があって、自分の勉強的仕事をやってゆくにも、おのずからたのしむ風のゆとりが欠けて極めて微妙な焦立ちが底に流れていた。書いていながら不図それを感じ、二重にいやでした。(島田へゆく前)思索のたのしさ、対象により深く深くとはいり込んでゆくたのしさで、体をふりながらわきめもふらず進んでゆくようなところがなく、何だか息が短くて癪《しゃく》にさわっていた。心ひそかにこういう神経の過程はどんな工合に踰《こ》えてゆかれるのかと思っていた。
そしたら、この頃そういうごく微妙な部分でらくになって、いくらか均衡をとり戻した自覚があります。だからこの調子で八月は暑さも暑いし、すこしゆったり顔を眺め、物干にほされるあなたの着物をたたんだりして滋養を摂《と》ろうという気になりました。それでいいでしょう? お互にそういう意味での養生を致しましょう。ともどもということも具体的で、貴方の白絣の袖がついここにあるような感じは大変に大変に気の休まりになります。たまだと、何だか大きい声を出して、力を入れて、私は丸っこいから精一杯爪先に力を入れて、のり出して物を云うようだけれども、この頃はふだんのようで、あなたも私もふだんで、この何でもないようでたまって来る滴々が生活にもたらす味いは又特別です。首をかしげそれを味い、体中に膏油のように手のひらまでまんべんなくのばしてゆくようなところがあります。この膏《あぶら》がもっとよく沁みこんだら、私はきっと何かこれまでとちがった豊かな元気をとり戻すだろうという予感がします。既に新しい細胞が微かな活力でうごいていることを感じます。妻として作家として今の事情から日々新しいものをすこしずつではあるが本質的に吸いとっているようです。それに、たまだったときには、その次の時までの私の生活の全内容というものを最も中心的なものに総括して、その印象を貴方につたえるしか方法がなかったから、私が自身の弛緩《しかん》を警戒する敏感さ、あなたの知ることの出来ない部分にゴミをつけまいとする心くばりは、随分神経質でした。同じことであっても、きのうからきょう、きょうから明日へと流れつづくと、その流れは自然で、その心くばりにおいても一緒の感じでくつろげる。
これらのいろいろの感じは皆新しい。こういう感じが来ようと知らなかったし格別それを期待していなかった。知らなかったわけです。
私たちが生活するようになってから、私は屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》新しい歓びとおどろきにうたれてそれを百花繚乱という表現やそのほかの表現で二人の間にもって来たが、例えば今こうやって書いている私の心を流れているものは、何と云ったらよいでしょう。
これは小川かしら。きれいな水のたっぷりある、草の葉をそよがせて流れる川の音のような工合ね。息がしやすいような空気がここにはある。静かにその音をきいていると、時の経つのを忘れ飽きることがない。ああ、だがこれは決してただ単調に流れているのではない。一寸、こっちへ手を出して。ね、あすこにあんな燦《かがや》きがあるでしょう。そして、あの色は何といり組んだ光りをもって次第に高まって来るでしょう。益※[#二の字点、1−2−22]美しさと勁さとを増して高まって来る音響の裡に私たちは包みこまれ、そして、こういう感覚の中で、あなたは去年の苦しかった夏、私にあてて肉体の衰弱が強くなると逆に日常的便宜性に関しない大きな平安の心持が強く起きて来るのは面白い経験だったと書いて下すったのでしょう。(本の整理のために去年の手紙をよみかえし十月から十一月へとユリの旧作をよみ返して下すった非常に深い心持の意味を更につよく感じ、この前の手紙にもそれを書きたかったのでした。けれども、一方であんなへまをして迚《とて》もその勇気がなかった。紙がなくなってしまった。小さい字で。小さい字を書いて感じる。ずっとそばでこの位の声でものを云いたいと、非常に非常に。
八月十日午後 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月十日 第四十二信
お手紙ありがとう。今朝拝見しました。そして、読んで或おどろきを感じ、それから様々の感想を刺戟されました。私はこんな立腹の調子の微塵も感じられぬ手紙、最も深い親切だけが漲って感じられる手紙を期待しては居ませんでした。あんなことを云っていらしたから少くとも、もっと所謂こわいものを覚悟していた。十分それにふさわしいのであるから。
一通り読み、更に読みかえし、私はこの手紙の中に云われていることが、全く根本的なものにふれ又機微にふれている大切なことであるのをわかるばかりでなく、それを云っているあなたの態度から二重に感じるもの、教えられるものが非常に深い。
この間、本の整理のために去年の間にいただいたいくつかの手紙をよみかえしたときにも、私は何か自分が感情的になってせまくとりつめたような気持で受けたことも、あなたの側からは、ひろい生活的見透しに立って云われている場合であったことを再び発見して居りました。例えば去年の初めここへ家をもった前後のことなど。
きょうお手紙を読んで、私は貴方が元より天性にある資質であるが、その規模というか大きさというかを一層深め拡げていらっしゃることを痛感しました。弱点をそのままうのみにして許す寛大さと云われるようなものでない寛大さについて、私はこれまでも一度ならず身にしみて感じて来ています。それでも、この手紙には、何とも云えぬこせつかなさ、不動な正当さ、いつ読んでも、読む人間が人間としての成長を願っている者なら、尽きぬ教訓となるものが、単に言葉としてではなく、独特の温さの感銘を伴って湛えられている。私がこの感動を特にとり立てて云うのは、貴方の内にこのようにして豊富にされつつある或る力が、日常のどのようなところから蓄積されて来ているかということを考えずには居られず、それに思い到ることで、云われていることが益※[#二の字点、1−2−22]その真の価値で心にはいって来るためです。
相手を傷つけず、しかもその最も急所にふれての忠言を与え得るというのは、或る人間的達成の水準以上にあって初めて可能です。私などはこの点だけ見ても実にまだまだです。客観的な正当さと、自分が怒ったり毒汁を吐いたりする権利とをごっちゃにしたりする。
私はこの前の手紙で書いたように、本当に自分の腕にかぶりついているようなところのある気持でこの手紙をひらき、そして読むのだから、ここから射し出す明るさとあったかさとに何とも云えない気がする。
人間と人間との間に「純粋」な感情交渉があり得るなどということは全く仰云るとおり無いことです。だからこそ、価値あるものの価値と本質とを守ることが不可欠になる。愛情にしろ、最も複雑な、固有な、調和と共感と努力とが統一されているからこそ、かけ換えというもののない献身の諧調に達する。お手紙の中のその数行は、愛情について云っても、謂わば現実的相貌にふれてのこととして、意味ふかく、私の捕えられる一番複雑な内容において拝見した次第です。
私たちの生活の成長ということについて考えます。いつしか段々といくつかの段階を経て、私たちの生活も、今はよく云い現すことは出来ないが、ただ仲よいとか、睦じいとかという程度の時代を過ぎましたね。自分の生活は独特だからとこの間仰云った、私の生涯もその独特さと結びついてやはり独特なものとなって来ている。縫い合わされて、その糸はこちらに出て来、この糸はそちらに出ていて、分けられない。例えば自分の弱点についても、先は、貴方に対して恥しかったり、残念だったり、極りわるかったりした。貴方にそれにふれて云われるとき、向い合って座らされるような気になった。
段々、今はそうでなくなっている。私の弱点さえも、私があなたから離れることのないものであるごとく貴方にくっついているものだと感じている。それについてすまないと思う。どんなに手荒に貴方が療治をしようとも、貴方の一部なのだから、一生懸命に手をかし、率先して最大の努力をつくす気持です。こういう云い表しかたは不十分なのだけれども、いくらかわかって下さるでしょう?
私は貴方の Better Half になるということは恐らく決してないだろうが、然し仮令 Weaker half であるにしろ、その向上と発展とのために現実に生涯が賭されているのであってみれば、私たちは少くとも腐って動かない部分をもっているのでないことだけはたしかです。「雑沓」について書いていらっしゃること、思わず笑ってしまった。あれはね、まさか私だってそれを云った人だって「カッコつき」の大傑作と思っては居りません。貴方に読んで頂けないものについて、私はいくらかでも知らせたいと思う、すこしはましということを知らせたいと思う。それで、その意味で、そういう表現で云われた言葉もつたえるわけ。達成だなんかと思っているものですか。この手紙全体の終りに近く云われていれば、細かく反覆しないでもよいと思って、これだけにします。私が日々行くことは、初めはよく分らなかったねうちをもたらしますから、私は一つの丸い吸収玉《アブゾービングボール》(そんなのあるかないかしらないが)となって行きます。深いお礼の心とよろこびとをも[#「も」に傍点]って。
八月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第四十三信 二百十日でも近づいたような風の吹きかただこと。栄さん宛に送っていらした手紙の本のリストもすっかり帳面にかきこんで、そちらでお買いになったものをぬいて、みると注文は凡そ
一九三五年(十年度)一八〇冊内一七〇読了。
一九三六年(十一年度)七〇冊のうち五〇冊返送。別に医療に関するもの十冊位送る。
一九三七年(十二年度)主として医療のもの一〇冊位。
一九三八年(十三年度)この年から購求が主となったので、御注文は大体古本でさがす分となりこれは凡そ一〇冊位です。
三六・七年とも雑誌はずっと見ていらしたから、それを一年に三〇―四〇冊として数えると次のようです。
一九三五―一九三七年末迄凡そ三〇〇位読了。
一九三五―一九三七年末迄注文凡そ三三〇冊位。
このほか、そちらで折々購求してお読みになった単行本を入れると、凡そ三五〇―四〇〇冊となるのではないでしょうか。一九三五年は一ヵ月凡そ十四五冊以上読まれて居ります。この密度は永年つづくものではなく、つづいたらば必ず烈しい神経衰弱になったでしょう。私の経験で、読めて読めてしかたがない、又読みたくて読みたくてしかたがなく、御飯の間も手ばなしたくないようで、ハハーンと我から肯《うなず》き、読書のスピードをおとすことと、一ヵ月に冊数をへらすことに努力した覚えがあります。そういう風に抑制して一日を、日本経済史・漱石全集、一寸したものと三つに区切って、三日四日目に大体入れ替えをするような調子でした。
どうかことしもあまり読書はつめてなさらないで下さい。読みすぎは実にわるいから。呉々おねがいいたします。今年から来年にかけてもう一息丈夫になって下さらねばなりません。読むことを制御できたその力で恢復していらしたのだから。本当に大切です。この分は本のしらべだけ。参考におなりになるかと思って咲枝宛のと栄さん宛のとの中からの抜き書を同封いたします。
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