、のが昨年であったか岩波文庫として出ました。お気づきでしたろうか? 面白いものね。
 おひさは今夏蚕が三眠からおきたところで田舎で大働きをやっている様子です。早くかえって来たいと云っているが。
 うちのことは島田からの手紙で書いたようにまだはっきりきめられません。けれども島田へ四十日近く行っていた経験で、私がそちらにつれて動くことが多くなれば家を一軒もっていることは全く無意味です。林町の離れは、ぐるりがぐるりであり、又いろいろ大局的に、教育的に影響がよろしくない。たださえ私が金持という伝説が偏見とさえなって流布しているのですから。
 生活の本質の成長というための努力は、時には一見まことに些細なような点でさえ相対的には大切なことがあります。うちのことなど単に便宜上だけのことでないから、いつぞやあなたも一寸仰云ったように、よく考えてきめたいと思います。親しいひとたちは今のような風に生活して行けないかしらと云うが。いっそのことそこの塀のそとへキャンプでも張ってしまいましょうか(※[#感嘆符二つ、1−8−75])
 島田の方へわざわざあの本(文芸百科辞典の)送って下さって本当にありがとうございました。送って下すったのが着いたとき私はもう立ってしまっていて、フセンがついてこちらへ届きました。ざっと読んだことがある。けれども又読みかえそうという気になりました。しんから歴史をとらえた大きい感情、深い湧き出ずるものをもった文学をこの頃は渇き欲します。実に欲する。稀薄な空気の中で酸素が欲しいように欲しい。金子しげりというような女史たちが、男のズボンの折りかえしが無駄でありというような決議をする世相。「島崎藤村」「菊池寛」(小島政二郎)というような題で小説が出る流行。文学の歴史も、作家そのものが文学思潮的に稚くて、わからず知らなかった時代(例えば明治初期)と、作家の努力が作品と現実が引き込む必然からどうよけようかという点に払われる時代とは大変な相異ですね。
 今夜は栄さんもすこしましだし。大して暑くないし、久しぶりで夜机に向っていい心持です。島田のつかれが抜けないうちごたついていたから。
 本のリストはもう一度しらべてお送りいたしますが、いつか一度は、まとめてお送りしたことがあったと覚えて居りますが、どうだったかしら。これと一緒にハガキを書いてアグネスの本注文して見ます。ドイツ語のはあるが、私には駄目。だが、この頃はフランス語とドイツ語少々よめないとつまりません。すこし読みなれたら私流によめるのではないかとも思います。イルマさん(是也の細君)ならいい先生だろうが豪徳寺ではね。鶴さん外語のドイツ語の夏期講習に通っています、感心です。除村さんは親切にやると露語をうけている人が云っていた。これから火野氏の「麦と兵隊」をよむ。ではまた。あした雨でないと布団をもってゆくのだけれども。寝冷えをなさらないようにね

 八月四日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月四日  第三十九信
 昨夜から書きかけていた手紙があったのだが、それはやめてしまって別にはじめます。きょうのことは、本当にわるうございました。いろいろとさぞおいやだろうとすみません。ユリは、もとよりあなたの体のことは実に実に思っているのだけれども、又一方ではそれよりほかのこともわかっているつもりです。だから、時によっては、その心痛をどんなに努力してもちこたえるかということは、この一年半の経験でよくわかって頂いていると思います。体のことについて世俗的な女房風なはからいをやろうというようなこせついた魂胆はなく、単純にかんちがい納得ちがいをしたのです。そして、自分でそう合点したので却っていやに手とり早いようなことをやって、やっぱり女房並にアンポンであるようで本当に辛い。あなたとして仰云るとおり勘弁するもしないもないとしか云いようがないでしょうが。きょうはかえりに悄気てかえった。悄気て風の吹く原っぱのところをかえって来た。今も悄気がぬけない。あした顔を見たらぬけるかしら。あしたもしあなたのいやさも増していたらと閉口した心持です。ちゃんとあなたのなさる通りにと思ってわざわざ訊いて頓馬をするなんて何て頓馬でしょう。ここではこまかく申しませんが、自分の心に対して辛辣な気持をもちます。頓馬をされてあとであやまられるなどということは馬鹿らしいことであり、下らなく腹立たしいが、どうか堪えて下さい。用事についての話しかた、私としての念の押しかたの呼吸、要点が痛切にわかりましたから、これからは決してそういう混乱はいたしません。残念でたまらないところがある。
    ――○――
 本のリストらしい[#「らしい」に傍点]ものを同封します。これについても大して威張れない工合ですが。
 大判の大学ノートに線をひいて、日づけ、書名、状態をかきこむようにしました。そして差入の紙や何か入れてある大箱へはり紙と一緒に入れておいて、すっかりちゃんとやります。注文の部、こちらから入れた部、かえって来た部(購求のものもそのときしるしをして)と三つに分けて書いたら、其々わかりやすいでしょう。これからはその帖面をもち出します。
    ――○――
 いろいろとお喋りしたかったのだけれども、今夜はそんな元気がないから、又。
 屋外燈管制が今夕からはじまって、電車は、ものの読めない暗さで走っているそうです。竜頭蛇尾ということには謂わば芸術的に云ってさえ美がない。だから全く全く恐れ入って小さくなっている。

  一九三七年五月十四日づけ *購求
 『ゲエテとトルストイ』┐
 『大地』       │読了のもの
 『外遊断想』     ┘
 『日本統計図表』    ┐
 『近世日本農村経済史論』│注文
 丸善目録        ┘
 スタンダール・独歩(*ともに不許)
  六月五日づけ
*『戦略・戦術論』    ┐
*『エッケルマンとの対話』│
*『絵のない絵本』    │購求読了
*『蒙古』        │
*『軍縮読本』      │
*『ロシア語四週間』   ┘
 『文芸年鑑』    ┐
 『プーシュキン全集』┘差入
  六月十六日(巣鴨へ引越しての第一信)
 ドウデンの『図解字典』(中野から)
  七月二十七日づけ
 原博士『肺病予防療養教則―かくの如く養生すべし』
 不如丘『療養三百六十五日』
 新潮『結核征服』
 長崎書店『療養夜話―胃腸病の新療法』
  八月十六日づけ
○この手紙に本のことはなかった
○この間に手紙なし
  十月四日づけ
 南江堂『結核及びその療法』読了
 『ダイヤモンド』九月一日(注文)
  十一月二日づけ
 ユリの古い本読了(『貧しき人々の群』『一つの芽生』等)
 『秋風帖』
  十一月十八日づけ
 『日本風俗画大成』二冊(了)
 「フランス通信」┐[#ここから2行の}は連結]
 「東西雑記帳」 ┘購求
  十一月二十五日づけ
 『その後に来るもの』 ┐
 『支那は生存し得るか』┘購求
  十一月三十日づけ
 「朝日」「毎日」年鑑購求
 十二月二日づけ
 『二葉亭全集』目録 差入
 ピリンガム『支那論』 購求
  一九三八年の分
 『真実一路』(すみ、かえる)
*『科学的精神と数学』(林町へ)
*『生活の探求』
 国勢図会―地図┐
 ロシア語の本 ┘差入すみ
 本庄『日本社会経済史』   ┐
 土屋『近世日本農村経済史論』┘注文。但品切れ、今はいいとのこと。
  以上のほか手帳から注文の書きぬき
 『岩波六法全書』(差入ズミ)
 牧野『日本刑法』上下(差入ズミ)
 『監獄法概論』(差入ズミ、不許、宅下げ)
 『日本経済統計図表』三巻の中の一冊(品切れ)
 三笠書房『発達史日本講座』内容見本(出版中絶につきとりやめ)
 『大尉の娘』(プーシュキン原文)スミ
 中央公論社『支那経済と社会』(ウィットフォーゲル上巻)(売切れ、古心がけた)
 学芸社『支那農業経済論』(スミ、かえり)
 The March toward the Unity 品切れ、注文した。
 『東洋歴史地図』(八月三日発送)
 『牧野英一記念論文集』中 鈴木義男氏論文ケイサイの分。(しらべ中)
 『敗走千里』(八月五日送)
  送品目録 *は購求
*『支那事変実記』
 『神々は渇く』(不許)
*『山谿に生くる人々』
 『リカアドウ』
*『冬物語』
 Red star over China 不許
*『批評精神』
*『フランス、イスパニア読本』
 『二葉亭四迷全集』第六巻迄
 『三井王国』
 『一般哲学史』
 『古代日本人の世界観』
 『内科的緊急処置』
 『虫様突起内科的治療』
 『療養新道』
 『家庭療養全書』
 『胃腸病の新療法』その他医療に関するもの
 『デヴィッドの生立』
 時局関係のもの数冊(『支那は生存し得るか』その他)
 『聖女ジョウン』
 『戦争』
 『経済学及び課税の原理』
 『支那経済地理概論』
 『アメリカ読本』
 『日本文学評論』二冊
*志賀直哉 第一
 『雪国』
*『緑の館』
 『中條精一郎』
 『母の肖像』
 『フランクリン自伝』
*『シェクスピアその世界観と芸術』
*『リアリズム』
 『出版年鑑』
 『蒙古』
 『軍縮読本』
 『絵のない絵本』

 八月六日朝 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 第四十信 私が誤って納めた金[自注8]について、貴方の意志でなかったという点を表明して頂きたいと思います。土台私が払うべきものではなかったのでしたからお手数ですが、どうぞ。

    裁判ノ執行ニ対スル異議
[#地から4字上げ]被告人 宮本顕治
 右者兵役法違反被告事件ニ付
 昭和 年 月 日(ここへ地方で判決の云いわたしのあった年と月。日はなくてもよい)

[#ここから1字下げ]
御庁ニ於テ罰金弐拾円ニ処スル旨ノ言渡ヲ相受ケ候処昭和十三年八月四日東京刑事地方裁判所検事局ヨリ被告人妻ユリニ対シ右罰金ノ納付方請求有之、妻ユリハ誤ッテ之ヲ納付シタル次第ニ有之候(領収証書番号第一〇五九号)従ッテ右罰金ハ被告人ニ於テ納付シタルモノニ無之候間右執行ノ御取消相成度此段異議申立候也
[#ここで字下げ終わり]
   昭和 年 月 日
[#地から6字上げ]東京拘置所在監
[#地から3字上げ]右 宮本顕治
    東京刑事地方裁判所
             御中

 こういう手紙をすみませんがお出しになって下さい。事後でも貴方のお払いになったものではないのだから、被告人としてやっぱり手紙をお出しになる立場がおありの由です。私が頓馬で面倒なことをおさせして本当にすみません。
 とりいそぎ、要点だけ。

[#ここから2字下げ]
[自注8]誤って納めた金――一九三五年ごろから係争中であった兵役法違反事件が一方的に決定して、百合子に罰金二十円を支払うよう通達してきた。
[#ここで字下げ終わり]

 八月八日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 第四十一信 三四日やせるような思いをして夜も余り眠れないような気持だったので、きょうはかえるとパンをたべて夕刻まですっかり眠りこんでしまった。
 良人というものは妻の愚かさによっても良人としての自分を痛感させられる場合がある。一生のうちに何度かあるものなのでしょうか。親の愚かさよりつれ合いのおろかさは何倍かしのぎにくい。そう思って辛かった。それでも貴方がそうやって平らかにうけて下すったから本当に有難く思います。あなたのいやさをこちらからまざまざと察してその原因が自分であることを承認しなければならないというのはどんなに苦しいでしょう。こういう心持は貴方はきっと一度も御存じないでしょうね。私はこういう経験に際してはギリギリのところ迄自分を追いつめて見るから汗と一緒にひとりでに涙が流れました。

 今年の夏は私たちの暮しには珍しい夏ですね。毎日でなくていいと仰云るけれども私は八月中は毎日行こうかと思って居ります。あなたの風入れになるばかりでなく、毎日きまった距離をきまった時間に歩
前へ 次へ
全48ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング