B世間一般の時期も過去の六七年間は、今日では不可能のことを可能ならせていたのです。
 私は、あなたがどうもそんなことがあるかしらといいたげな表情をなさるので、はっきり納得して、その点では安心して頂きたいと思います。あちらの経済生活はあなたの配慮を求めずにやってゆけます。お母さんのお気持も、世間並の修辞をぬきにして申せば、やはりそうです。折々貴方の表現にしたがえば時候のかわり目にいろいろお思いになり、ごたごたとなって平凡らしい綿々が生じたとしても。
 毎日はあちらに現実あるものの上で経って行っているのです。そのことでも、申すまでもなく御安心下さい。私たちが弟を二人もっていたということは、偶然のうちの最も幸福の一つです。お母さんが今日安心していらっしゃる程度を、私は貴方に感じさせてあげたいと思います。今日から明日の問題をとりあげれば、それは無いことではなくて、無いのが有るようになったことから生じるのです。すべて。これも又微妙です。
 こうやって書いていて蚊やりをつけていないのに気になるほどの蚊がいない。今年は蚊の尠い夏でしょうか、この間の大雨で流されてしまって減ったのでしょうか。
 この間の大雨の被害四億の由。東海道阪神の被害のひどさは汽車から見て実におどろきました。舞子のところ住吉のところなど、線路のところへ山が岩と松とをのせて流れ出したようで砂土の丘が出来ている。
 六甲の麓《ふもと》の金持の別荘地帯は、八畳じきぐらいの岩がたたまり落ちて家屋を埋め、地盤はその上から新しくかためなおさねばならぬ。
 布引のダムに山から流れた木や岩がつまってそれがあふれ(布引貯水池が決潰した水)大惨害となったのだそうです。六甲を植林せず、ゴルフリンクや何々ガーデンと土一升金一升にやったばちの由。急行は最徐行で通り、復旧の困難さがよく分りました。ひろい範囲ですし、仕事が人の手でやるしかない種類なので。
 浴衣あれを着ていらっしゃるうちに白い絣と薄いものとをのりをつけてお送りします、隆ちゃんは浴衣にのりのついたのが嫌いだそうです。貴方は召しましたね。その方がさっぱりするから。夏のかけもの月曜にお送りします、ボタンたっぷりつけました。どうかおなかを呉々大事に願います。去年から見ると然し何という好成績でしょう! では又近々に又

 七月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月二十三日  第三十七信
 やっと盛夏らしい空気と日光になりました。暑くてもカラリとして風があると爽快です。三四日前のむしあつかったこと、まるでジェラチンの膜の中に入っているように苦しかった。机の向きをかえて、エハガキに描かれているのとは正反対の方の窓に机を向けました。梧桐の繁った梢が窓の前にさし出ていて、薄い緑色のレースのカーテンが風に帆のようにふくらみます。
 そちらは、いかがでしょう。暑さはこたえるでしょうね。おなかはどんな調子でしょうか。
 昨年のことを思えば、今年はたすかりますけれども、なかなか気がかりです。どうか呉々もお大切に。食事の前に、薄い食塩水で、口をよくゆすぐ(うがいをする)という仕事をずっとやっていらっしゃいますか? この間、そちらからの本を見ていたら、そういうことが、腸の注意の条にありました。よんでいらっしゃることは必定ですが不図、忘れていらっしゃりはしまいかという気がした。特に大してわるくないときには。もし実行していらっしゃれば何よりですが、念のために。
 こちらは、ひどく疲れが出たというのでもないが、暑いなかを用事で歩く日がつづいて、ヤレと落着こうとしたら、二十日の夜十時頃から、うちの栄さんが俄におなかが痛いと、うなって苦しみはじめ、その夜は二時頃まで医者さわぎをしました。何でもない暑気当りですが、日頃体が丈夫でないので、心配した。ずっと臥たきりで、きょうやっと床の上におきている。昨日、Sさんという、おなじみのもと慶応の看護婦をしていた人が偶然遊びに来て、すこし泊って行って呉れることになったので、大助り。寿江子も引きつづいてこっちにいて、この数日は、片方に病人、片っぽに半病人で、私もフーとなっていましたが、きょうはましです。
 オリンピックも中止と決定しましたね。文展をやるとか、やらぬとか、云っていて、又これは、いかなる情勢の下においても開催すると、文部大臣の決定が語られています。加納のお爺さんがオリンピックを日本でひらくために、外国へ行って、かえりの船の中で病死し年や何か、父を思い出させるので(気分も)、新聞の写真を冷淡に眺めることは出来なかった。そのオリンピックが中止になったか、フムやむを得ぬ、とお爺さんは一寸唇の隅を引き下げていることでしょう。オリムピック準備で、三年間の契約で来ていたドイツ人など、つまり失業ね。紡績女工のみならんや、です。
 八月号の『改造』に、文芸春秋の芥川賞をとった火野葦平が、三百枚ばかり、戦地の日記「麦と兵隊」をよせています。これから読むところ。楽しみと一種の情愛を感じます。林や尾崎さんのルポルタージュとは、おのずから異った期待を与える。『中央公論』は、やはり従軍している上田広の作品をのせています(きょうの広告)こちらは、支那娘と支那軍閥を描いた小説らしい。尾崎士郎まがいの線とうねりで、「糞尿譚」をかいた作者が、上官の推薦文とともに日記を発表していて、『新文学』によっていた上田広氏が、どんな仕上げで小説をかいているか、なかなか興味がある。作者それぞれがもっている、微妙な条件と心理に迄ふれての面白さがあります。暇があるから書いたのではなくて、いつ死ぬかもしれないと思ってこまかに書いているところ、なかなか人間の生活と文学との、深い、深いきずなを思わせます。読んだら感想をおきかせしましょう。日露戦争のときには田山花袋や国木田が記者として行き、鴎外には陣中の長詩や何かがあり、一方藤村が、『破戒』の自費出版のために一家離散させた。三十年後、文学の領域はひろがっている。同時に、一家離散的面も複雑になって来ている。全体ひっくるめて、文学の収穫は豊富となり、増大しているのです。文学の全線ののびていることは、逆に中間のたるみのひどさをもおのずからひき出しているわけです。自分の力でうごかず、うごかされる部分が。この、線のたるんだ部分に、しゃがんで首をうごかして空の雲の走る方向を見上げている夥《おびただ》しい作家がいる、それさえも文学の大局から見て決して無駄ではないというべきでしょう。
 そちらからの本の中に、『直哉全集』の第一巻があったので、初めていくつかの短篇をよみました。「菜の花と小娘」など、ある美しさ、人間らしいつや、明瞭さをもっているし、作者が、よく女の子ののびのびとして弾力あるしなやかさを、理解していることがわかる。だが、この完成の境地は、全く高踏的で謂わば陶器的な美観ですね。過されている青年期というものも、今日の青年はどんな気持でよむでしょう!
 犬が鳴いて、「ミヤモトサン、ミヤモトサン」と呼ぶ声がした。(午後二時)寿江子が、「ハイ」と云って行って電報をもって来た。電報? 何だろう、あけて見て、「キンシカイジョ[自注7]」とよみ、凝っと紫インクでタイプされたその一行と名前とを見ていると、あなたの声と身ぶりとで、「さあ、おいで」と云われている心持になりました。きょうは土曜日なのが、何と残念でしょう。御苦労様、本当に御苦労さま。あしかけ五年ぶりです。このほんの短い一行にこめられている内容を考え、電報を書いていらっしゃるときの気持を考え、さっぱりした浴衣でも、うしろから着せかけて上げたいようです。よく電報をくだすったことね、ありがとう。では、この手紙も普通に近く着くことになりましたわね。はじまりの方は、半月ばかりかかるものとして書いていたのだが。
 月曜日には出かけます、ここからは池袋へ出てバスで、全体二十五分ぐらいでゆけるから。今日何か一寸してあげることは出来ないかしら。仕方がないから、色鉛筆の花をさしあげます。では月曜ね

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[自注7]「キンシカイジョ」――一九三四年十二月未決におくられてから四年めに、接見禁止、書信の禁止が解除された。予審終結の結果である。顕治は事実を公開の公判廷で陳述することを主張して白紙のまま予審終結をした。
[#ここで字下げ終わり]

 七月二十六日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月二十六日  第三十八信
 やっぱり手紙を書かないわけにはゆかない。猶書かずにはいられないようなところもありますね。ブロッターにつかうために細く截った吸取紙をこの紙の上にのせています。ブロッティッングペイパアも元のようなのはそこいらの文房具店にない様です。
 いねちゃんの「くれない」という小説が中公から本になりますが、この表紙も注文通りの紙があるかないか判りませんからと、きのう話していました。小さい印刷やに紙がわたりません。鉛の字母が一本一厘だったのが八厘です。どしどし潰れている。本は益※[#二の字点、1−2−22]大切なものとなって行くわけですが。――
 きょう、私が出かけようとして腰を上げかけている徳さんと話していると、隣りの大家さんから電話ですと云って来た。Sさん(看護婦であったひと)が出ると、それをかけてよこしたのは寿江子で、十五分ばかり前に出かけたのにくっついて犬が駅の前へ行ったら犬狩りにつかまってしまった、おまわりさんにたのんで命乞いをしたから連れに来てくれという由。うちの小道のつき当りに一軒家があります。そこは実にちょくちょく代って、この一年半の間にも三四人代った、その一軒が引越しのとき一匹犬をすてて行った、小さい犬ではない雄で白いところに黒いブチがあって、よく吼《ほ》えるが一向吼える意味がはっきりしないという頓狂ものです。食物をやってマア人が通ると吼えるだけいいと笑っていたところ、ちゃんと飼っていないので頸輪も札もない。それが出かけるたんびに前になり後になりして走ってついて来る。ワンワ、今につかまるよ、などと云っていてつかまったわけです。殺されるか飼うかと二つに一つとなって飼わざるを得ない。明日警察へ届けましょう、だが年もわからず名もない。ワンワと呼ぶだけ。時には犬さんお前は少し足りないよなど云っていたのだから、Sさんに名は何てしましょうねと云うと、これ又ワンワでいいじゃありませんかという始末です。
 Sさんが来ていて呉れるのは二十日から栄さんが体をわるくして(胃腸)床についている。偶然来て泊って手伝っていてくれるのです。皆暑気当りの気味ですね。いね公もやったし大きい栄さんもちょいちょい熱を出す。それには原因があって、繁治さんがこの半月ばかり前から勤めになりました。大河内の科学主義工業の調査の方です。80[#「80」は縦中横]円。京橋へ通う。朝八時ですから六時頃おきる。妻君はそれですこし参るらしい様子です。泉子さんは赤ちゃんが出来たのと呼吸器の障害とで新協が東宝で今度やる「火山灰地」には出演不能。泉子さんを休ませる会がいろんなひとの骨折りで出来そうです。芝居の方のひとの肉体的労働というものは実に大きい。安英さんの体を見たってびっくりする。どうして持つだろうかと。すこし休んで丈夫な子を生まねばなりません。これから子供を育てるのは元のひどさと又ちがう。謂わばわれわれの貧乏が貧乏としてしかうつらないようなぐるりの有様だから。子供をしゃんと育てて行くにむずかしいわけです。スフ時代の子供ですからね。豈《あに》おべべのみならんや。
 重治さんもずっと通っているらしい様子です。てっちゃんはお祖父さんが明治のごく初め、浦塩へ役人として行ったその時代の日記を整理して一部八月の『中央公論』に発表しました。このお祖父さんというのが千葉の佐倉の堀田の何かひっぱりがあり、脱藩した形式で塾をひらいていて、西周だの西村の祖父だのが何か習ったらしい。西村の家は堀田ですから。いつかその話が出て、フームというようなわけでした。そう云えば、このお祖父さん(西村)の『日本道徳論』とい
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