四月以来初めてだと云っていらっしゃいました。この四月以来ですって。三十何年間の話ですね。
 ああ今やっと隆ちゃんたちが戻って来た。お母さんが「お父さんの命日にお前」何とか、心配したことを話していらっしゃるらしい。私も下りて見ましょう、おやこれからお昼らしい、カチャカチャ茶わんの音がする。「百合子はん一寸来て見てつかわせ」何だろうと行って見ると室積では鯖《さば》が十何万疋とれてこれから又広島へそれを運ぶ、一寸よってお昼をたべているのだが、トラックにのって来た人が二十五疋ばかり鯖をくれている。うらや前やに分け野田さんが来たのにも分ける。お父はんの命日にというあとは、よく稼いでよろこんでじゃろというのでした。御燈明がついている。昨夜からかけて70[#「70」は縦中横]ばかり稼ぐらしい、こんなことは何年にもないとの由です。では又。隆ちゃん夕飯代二人分一円もらって又出てゆきます。

 七月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 七月十二日  第三十五信
 島田からおしまいの手紙を書きます
 十日にはお父様の三十五日が無事に終りました。八日の午後から徳山の岩本のおばさんがカヅ子という六つのお婆ちゃん子をつれて来られ、九日は夜の十一時頃までかかっていろいろの仕度をしました。十日は十時から式がはじまり、井村氏、山崎のおじさま、室積の河野とかいうところの細君、野原の母娘などで十二時頃式と御膳がすみ、お墓詣り寺詣りとすませ、夜すっかりひまになりました。
 三十五日がすんで本当に安心いたしましたし肩の荷が下りたようです。いてようございました。昨日は、皆が骨休めのため虹ヶ浜で一日のんびりしました。松林の間に六畳ばかりの離れの形の掛茶屋が出来て、そこを一日一円から、かす。あなたが家をかりていらした、あの前あたりのところです。その時分には、そういう設備はなかったのですってね、この二三年来のことだそうです。そこへ行くとゴザと座布団をもって来る。お茶その他も出来るのだそうですがきのうはまだ備っていなかったので、通りの方の氷店からお茶やお菓子をとって、もって行ったお握りをたべ、十一時頃から七時すぎまで海風にふかれて、松の香を吸っていい心持、様々の思いで午後を過しました。そろそろ海水浴をしている人たちもあり。午後四時頃まで実に晴れ渡って、沖を宇部へ通う曳船が重く並んで通るのが見え、水無瀬島の方もよく見え、いい景色でした。水無瀬島と野原の浜とをつなぐ工事が起されるとかいうが、あれがすっかり囲われて重油が流れ出したらこちらの海も今日のように清澄ではなくなりましょう。松も枯れるでしょう。
 十五夜らしいので、一つ浜の月見をしようと思ってね、大いに愉しんでいたのに、夕刻から風が荒く曇り出し、どうかしらどうかしらと云っている間にポツリポツリ当って来たので、それやれと仕度をして駅へ出たらひどい夕立が降り出しました。
 小やみに八時十二分かの汽車にのったら島田へつくと、白い埃がたまってぬれてもいない。スーと暗がりから隆ちゃんが出て来て、皆が下げて持っているお重箱の空や何かを自転車にのせて行ってくれました。そのとき私は何ともいえずいい気持がして同時に、お母さんのお気持が判りました。達ちゃん、隆ちゃん、うちは皆男の子たちで、大きくつよく立派に成人している息子たちにかこまれている母の感情の中には、微妙にたよっているところがある。愛情のうちに、母が娘に対するのとは異ったたより[#「たより」に傍点]がある。それに馴れていらっしゃるから、私のようにそういう便利なく生活するに馴れているものから見ると甘えるように、男でなくては、と云っていらっしゃる。だから二人ともいないときっとどんなにかお淋しいでしょう。娘二人いなくなったのとはちがってお淋しいでしょう。娘であって見れば力にしろ人間としての質量にしろ、母さんが優るとも劣りはなさらないのですから。
 女だって、男の子を家庭で見るように大まかに見て育てればすこしはましになるのにね。女は女で、こせつくようにと女がするのだから可笑しい。着物や何か誰のために何のためにそうしなければならないのか一向意味が判らないのに、あれではいけない、これではいけない。うちなんかそういう点では普通よりいく分ましなのでしょうが、どうもびっくりする。他は推して知るべしです。
 それでも今度は一ヵ月以上いたので、外出したと云えば野原徳山虹ヶ浜だけでお墓へちょいちょい位ですが、どこの家がどのお婆さんの家ということなどすこしは分って面白うございます。ここでは私もお客からやっと家の者らしくなり、台処へでも何でも勝手に歩きまわれるし、ものの在りどころもすこし見当がついたし塩の売りかたをも判ったし、雑巾がけもやるし、居心地よく楽になりました。
 今下で兼重さんが来ている。野原のおばさんも来て、克子さんが大阪でお嫁にゆくことになり(汽車会社の設計につとめている技手か何か)その結納の百円がいるので、明晩私が大阪で二時間ほど途中下車し克子さんにわたしてやるために、相談をしていらっしゃる。山崎の小父さんも昨日は珍しく虹ヶ浜へ一緒にいらして愉快そうでした。峯雄さんが出征し、進さんというのが額の真中に玉が入っていて出せないらしい。頭が折々気分わるいという位だそうですが、妙な工合に骨をくぼませてでも入りこんでいると見え手術が危険のため全快出来ぬらしい。左の指が二本やられて指はついているが曲らぬ由。一番末の息子は十九歳の由、のんべえの由。
 岩本さん(新)というひとは右腕をやられ、これも腕はついているが、水平以上にあがらぬ由です。
 私は明朝九時五十何分かにここを立ち七時に大阪へおりて十時にのりつぎ、十四日朝かえります。十五日にはお目にかかりに出ます。夏布団があげてないので気にかかって居る。白揚社のカタログ十二年七月のをこちらへ送って来ているが、本年のはないらしい様子ですね。あすこで今ダーウィンの全集を出しはじめた。面白い仕事であると思います、訳さえよければ。ダーウィンとファブルとの感情的いきさつも小説的ですね、ダーウィンがゆとりのあるイギリスの医者の息子で、イギリス流の気質でああいう体系的傾向を示したのに対して、コルシカの中学の貧乏教師をやったファブルが、フランス南方人のガンコさで反撥して、一生反撥していたところ、興味がある。文章をファブルがああいう擬人法で書いたのにもダーウィンの文章への明言された反撥がある。だが、今日第三者の目から見た場合、科学的な著作或は科学者の文章としてやはりダーウィンが上であります。いつか書いたかしら、ダーウィンという人は文章がいつの間にか牛の涎《よだれ》になってダラダラダラダラのびてゆくうちに、文章のはじめと終りとが自分で判らなくなって大いに困却したと自分で書いているのが可笑しい。又、小切手(銀行の)を書くときの大騒ぎぶり、金槌や何か皆自分の仕事場においといて子供らにそれを貸すときの勿体《もったい》ぶり、いかにもイギリスの中流人気質です。日本人は宣教師がああなのかと思うが、宣教師でなくても十九世紀のイギリス人に共通なものなのだと可笑しい。このうち(島田)のあわてかた、物忘れ、非常な物見高さにしろやはり一つの特徴で、うるさくて腹が立ってその癖滑稽で可愛い。何と可笑しなものでしょう、こういう日常の暮しがそれだけで初めであり終りである生活というのは! ではこの騒々しい中からの手紙を終ります。ああ島田もすっかり私の故郷になりました。うるさくて、きらいで、だが思うとふき出すようなことが沢山出来た。では又

 七月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県徳山駅より(「徳山市毛利公邸桜の一部」の絵はがき)〕

 十五日朝五時。今徳山駅でのりかえ六時十八分を待っているところ。売店があいたので一寸これをかきます。東海道が大雨で二日不通でしたからひどいこみようでした。東京駅では入場券を売らず、めいめい荷物をもって、ひどい押し合いでのります。十時にのれず、十時半に立って四時二十何分かにここよ。

 七月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき)〕

 布団を受とりに参りますから又いつかのように、そちらに示すハガキをお出し下さい。そのハガキをもって受とれるように、どうぞ。
   十五日

 七月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月十六日  第三十六信
 久しぶりにテーブルに向ってこれを書き出します。南の方から涼しい夜風が入って来て、すこし雨っぽい。どこかでホホホホと高く笑っている女の声がする。よく響くその声を自分で意識していることがはっきりと感じられて、変に華やかそうで却って空虚な感じを与える。
 さて、私はきょうまだ一種の揺れている心持です。あながち長い間汽車にゆすられて来たからではなく。パチンコのゴム紐をつよく遠くひっぱればひっぱるほど、ひどい勢ではね戻って来るでしょう? 私の心持は、それに似た工合だったから。熱烈にとびかえり、ぴったりとよっても、まだその緊張の顫動《せんどう》はのこっているというわけなのです。顎のあたりや頬の横にひげのあるときは、これまでも二三度見ているのだけれども、そういう顔とその中に輝いている二つの眼は、しみついて迚も消えない。大事になすって下さい。本当に、本当に。凝っと横になっていらっしゃるような午後、暑い空気は単調に而もありあまる内容をもって重く流れるようでしょうが、その空気を徹して粒々となってその皮膚をとりかこみ撫で、尽きぬ物語をしているものがある。叫びさえもこもっている。呉々お元気に。
 きのう一寸話の間で感じたのですが、島田の方が今日負債をもっていないという事実を、殆ど感じとして納得お出来になれない程のようですね。全くそれは無理ないかもしれません。あなたが物心おつきになってからはずっと激しい生活のつづきだったのですものね。この間島田からの手紙で書いたように、三十何年ぶりかなのだそうですもの。貴方にとって未知である条件が現在の島田の生活に生じている次第です。あの家の最悪の時期は一九三一年か二年、自動車を買う迄で、それからは二人の若い人たちが其々自分たちで車を使えることと、父上が御病気で、母さんが店を主としてやりくって手堅く内輪にやりつづけていらしたため、追々返済の時期に入り、昨年二月に大口の片が四年かかった揚句(交渉に)片づいてからは本年の四月を最後に全部かたがついたのだそうです。私たちの志もその役に些かは立ちましたそうです。今返すのは五十円ぐらいで折合うの一つだけだそうです。お父さんがそういう安心の裡で生涯をお終りになったということは、御当人のどんな安心であり又家のものの安心であるか、お母さんが、「おとうはんはフのええおひと」と仰云るわけがあるのです。ですからお母さんはお淋しいし生活も決して安心してはいられないながら、元から比べれば、これ程安気なことはなかったという現状でいらっしゃるのです。
 店の肥料は田舎の経済事情の推移と、うちがかけとりの面倒さから貸をしないのとで本年などは、あの家はじまって以来の閑散さだそうです。トラックが毎日二つ一つは欠かさず仕事をしている。隆ちゃんが正月までやって、あとはお母さんのお手でやれる左官材料米塩タバコすこしの肥料という風にしていらっしゃれば、生活は少額の扶助料とともに、不安という程のことはおありなさいません。何とでもやって行くからこっちは心配しないでと仰云いますが、私たちの気持として何だかお母さんお一人放ってはおけないから多賀ちゃんの給料 \15 だけもつことにしたわけです。あなたはですから本当にそう可訝《けげん》そうになさらないでよいのです。貴方を安心させるために私がそんなことについて実際とちがう、よい面だけをとり立てていうようなことはあり得ないのですから。
 今度は納得ゆきましたろうか。私が十五年も開成山に行かないでいるので庭から山々の宏大な眺望の代りに、放送局の塔を眺めることになると云われてもフウムと感服するが、どうも実感として来ない。きっとそうなのですね
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