のひとは胡適と並ぶ人の由。ですから、支那の現代文学の一方の面が感じられる。魯迅が、立腹して批評している現代支那文学の性格の一部がわかって面白く感じました。
『漱石全集』の中に、初頭のロマンティックな「幻影の楯」、「カミロット行」(これはむずかしい漢字)というような作品を覚えていらっしゃるかしら。漱石は時代の面白さを反映していて、そういう外国のロマンティックな騎士物語の中では、火のような女を愛して、興味を傾けて描いている。焔の如き彼女の思いをも支持して描いている。ところが、リアリスティックな日本の女を描くと、終始一貫心|驕《おご》れる悧溌な女(「虞美人草」藤尾、「明暗」おとしその他)と、自然に、兄や親のいうがままの人生を人生と眺めている娘とを対比させて、その対比でいつも後者をより高く買っている。その点実に面白い漱石の男心ですが、その初期のカミロット行の女主人公になる、ゲニヴィアという王妃の恋物語を、漱石は十八世紀の英文学の古典を土台にしているが、その書き方が(マロリー)車夫馬丁の恋の如しと云って、高雅にあでやかにと自分で書き直した。あでやかさ、高雅さが装飾的で、初期の漱石の匂いと臭気が芬
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