をなさる。二階を指して手をお振りになる。それでこそと、お母さんも「ホウホウ、そいじゃここで見ていたいちうのだったか」とそこにずっとお床をおいたままで、ずっと混雑の有様をきげんよく見ていらっしゃいました。午後一時頃、土蔵の前のところで家内だけ、父上、お母さん、私、隆、達だけで小旗をもった写真をとりました。よくお父さん暫くでも椅子におかけになれました。お見うけしたところ、やはり大分御疲労です。ずっとおやせになっています。それでも、頬っぺたに薄すり血色があって、心臓のお苦しくならない限り、おとなしくて居られます。心臓の苦しいというのは、心悸亢進するらしいのです。脈が非常に速くなり、百以上。そして結滞もするらしい。そういうときは鎮静する迄お苦しみだそうです。きのうも夜あたりそういう風におなりなさるまいかと大分心配したが、いいあんばいに平静におねむりになりました。
達治さんは元気で出かけました。けれども、何も先のことが判っているわけではないから漠然としたところもあって、きのうは島田のステーションの端から端まで溢れるような見送りをうけて出て行ったら、後から私は涙がこぼれそうでたまらなかった。東京からクレオソート丸を千粒ほど、キニーネを二百粒、クリームとなっている一寸した消毒薬を三チューブ買って来て持たせました。急に腹巻をきのうこしらえて、それもおなかに巻きつけてやりました。下じめも十五ばかり新しくつくってもって行かせました。七日の朝ついたら、何もしてない風で、お母さんは、何か薬ども持たしてやりたいが、と云っていらしたところだったので、少し持って行ってようございました。私は体に気をつけるようにとしか云いようがなかった。それにどういう生活があるのか分らないから、性的な悪疾についてはよくよく注意するようにと話したら、これは大変達ちゃんも思いがけないようで、しかも後々まで重大な意味のある注意だとよろこんでいました。誰しも戦さに出ると云えば玉や劔のことしか考えず、そのことのほかに終生を毒するものがあることを一寸考えない。そのため、外見は完全で大変なものをもってかえって、子や孫までえらい目を見る。一言でもそのことを注意出来てお互によかったと思います。手紙でもかけず、又お母さんの思いつきになることでもないから。八日午後二時四十何分かの汽車で広島まで行って、昨夜は宿やにとまるのだそうです。きょう(九日)午前九時に入隊。それからのことは分りません。隆治さんがきのうは柳井まで送りました。同年兵が今度は何人も出かけるそうで達治さんの乗る汽車にも沢山のって居りました。もし私のいるうち宇品からでも出るようでしたら、お母さんのお伴をして送りにゆきましょう。
こちらのガソリンは一ヵ月千キロ平均のマイル数に対して、一日五ガロンつまり一五〇ガロンです。それでどうにかやって行ける由。バスなどは往復回数を減らして居ります。運賃ももとより高くなったが、トラックがどっさり徴発されてこちらにのこっているのは尠いので仕事は沢山あるそうです。従って、商売はやってゆける。どちらかと云えばよくやってゆける風です。けれども隆ちゃんが入営すると、一人も男手がなくなるから、自動車は休車にしておく計画だそうです。一人の日給が人夫で二円―二円五十銭で、仲士と運転手とをおけば少くとも百二十円はかかり、それではやって行けないとのお話です。又、雇人だけでは又別にいろいろお困りらしいし。こちらの物価は二三割上ってはいるが、東京程多角的に生活に迫って来ないようすで、こちらの景気はどうですか、ときくと、誰も一様にぼんやりと、大してわるいことはないと云う返事です。隆治さんの入営はまだ検査が、この二十日故未定ですが、今年は早く入営することになりそうな風です。すこしは稼げるときに、すっかり働き手をなくするので、お母さんもお辛い様子で、きのうも別に涙をおこぼしにはならなかったが、いろいろ仰云る言葉からまことに同情を禁じ得ません。そういう場合になれば、私たちも出来るだけのことは些少《さしょう》なりとも致しましょう。只、現在は私の経済力も到って小さくて残念ですが。
野原の方は、あのお墓のある地域を覚えていらっしゃるでしょう? あの辺から(すこし手前から)ずっと海辺に近くまで何か海軍の方の大工場が立つのだそうです。七円であった地価が二十円となりました。そして、あの家の裏に十二間道路が出来るそうです。従って、野原の地面も予定の略《ほぼ》三倍の金を生じたので、すっかり御安心です。あちらの方はそういう思いがけないことで心配はいらなくなりました。冨美ちゃんは室積女子師範の附属高女の由です。女学校から引つづき小学校の正教員の資格をとるようにとあちらでも考えていらっしゃる。女の子でも一人しっかりさせておかなければあの家はあとでお困
前へ
次へ
全119ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング