した。相変らずピーピー暮しだろうとは図星故、大いに笑いました。でもあすこは栄さんがああいう生活的な人柄だし、ピーピーながらも抑揚をもって毎日をすごして居ります。
 話が唐突に飛ぶけれども、しゃべりつづけていなければならないというのは、何といやでしょうね。何もしゃべらず、ただ見ていたい、見て、見て、見ていたい。そう思う。尤も昏倒《こんとう》してしまうかもしれないけれども。
 明日あたり『六法全書』『国勢図会』などお送りしましょう。ああ、こんなにしてあれこれといってみて、いいたいことはこのどれでもないというようなのは、おかしい。そして、苦しい。
 自分ごとみんなまるめて、一つの黒子《ほくろ》にしてそこへつけて、眺めて、さて、この下じきになっている紙に向って又仕事をつづけましょう。

 きょうは三月二十三日の午すこし過です。雨上りの曇天であるが、窓をあけていると盛にどこからか雀の囀《さえず》りがきこえてきて朝のようです。昨夜は新響の定期演奏会でマーラーの第三交響楽でした。ひどい雨降りのところをあまり机にへばりついているので、意を決して出かけ面白かった、いろいろ。女声のアルト独唱や子供の(といっても若い女学生をつかった)合唱のついたもので、独唱の歌詞はニーチェの詩ですが、音楽でも神秘くさいものをほんとに幽玄にはなかなかやれないものね、すごむばかりで。それにつづく光明的な楽章に子供が合唱するのですが、それは教会のベルや神の栄光がうたわれる。ヨーロッパ人の感情の型づけが、あまり定型的に出ていて、ベートーヴェンはこういう型にしたがわず、もっと人間感情を生粋《きっすい》のまま、全く音楽的に様々の情熱を表現しているだけでもやはり偉いと思いました。人間生活の諸相につき入ること、それ以外に芸術はない。その諸相をより全体的にとらえ得るためへの努力以外に努力はないと今更の如く感じます。
 きのうは又、知っている人に割引で岩波の斎藤の『中辞典』を買って届けて貰い、うれしかった。なかなかいい字引です。活字が第一やたらに小さくなくていい。そして豊富にあつめてあって、こんなのと、オックスフォードと、市河の古語があれば、まあ大抵の役には立つのでしょう。非常な勢でやっています、早くすきなことがやりたいから。
 それから、かねがねの宿題の返事がやっときました。松山高校内菊池用達組販売部という紫のゴム印をおして。鉛筆をなめなめ書いた字で、先ず「お葉書正に拝見いたしました」云々と、女の字で書いている。今も菊池の由です。「以前の帳簿は保存してありますけれども本店主人及店員の主なる人は、目下戦地へ行って居ります為、金額は不分明に御座います。それで宮本顕治様のお名前はよく覚えて居ります。お払未納の分をお心にかけられお申越しでありますが」何程でもよろしい[#「何程でもよろしい」に傍点]と申すわけです。いくら位だったか覚えていらっしゃらないでしょうね。よほど前には三円いくらといっていらしたが。五円位やっておきましょうか? 越智という人のあとは四人目でお上《かみ》さんの住所は分りかねるそうです。松山の学校は指田町というところにあるのですかしら。あさってあたりおめにかかりにゆきます。繁治さんの詩を一つ『文芸』にやりました。
 私は林町のうしろなどへ行かないでよかった。実によかった。よろこんでいます。ここにこうしていてこそ新しい事情の新しい収穫がくっきりと身につくのです。それをひしひしと感じて居ります。
 沈丁花という花の薫り、そこにも匂いますか? この辺は夜など静かな往来いっぱいに漂っています。では又。春先の風邪を御用心。

 三月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月二十九日  第十五信。
 午前九時前の朝の光をうけて、あなたに手紙を書くというのは、大変珍らしいことでしょう。昨晩は十一時頃|床《とこ》に入って、非常にぐっすり眠って、けさはおひさ公と一緒におきてパンをたべて上って来たところです。
 あなたのところでは、今朝はどんなお目醒《めざめ》でしたか。やっぱり気分がよかったかしら。そして、永い間横になって目を開けて、朝の目醒のいろいろな情景を思い起していらしたかしら。
 金曜日は、出かけにうすら寒かったので、ああやってお目にかかったときはコートを着ていたが、ずっと広っぱの水たまり道を歩いているうちにすっかり暖くなってしまって、鋪道へ出たら、街路樹の支柱へハンドバッグなどのせて、コートを脱ぎたたんで持ってかえりました。そしたら、女学校の上級生であった時分、女子大へ一寸通っていた時分のことをはっきり思い出した、朝雨がふってかえりに晴れている。すると、私共はその頃和服で袴の上にバンドをつけて通っていたから、合羽《かっぱ》をたたんで、お包みの下へもって、傘をもって、
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