をやっています。それでも菊を大変上手につくる由。今は朝顔の鉢が沢山あります、おじさまの御秘蔵であったシャボテンのこちゃこちゃした小さい鉢はやっぱり棚の上や庭にあります。
こちらの家は静かで落付いて、本当に仕事がしたい気になること。一寸、いつかゆっくり来て、ものを書いて、折々は海辺へでも出て見たいようですが、もう間もなく例の建造物が出来、人口は五万になるそうですから、迚もそんなしずかな空気はなくなるでしょう。うちの裏の一番はずれのすぐそばに十二間道路が出来るそうです。表は三尺とかへずられて八間通りになりますそうです。そして、自動車は柳井室積間を疾走し、新都市計画が実現されるわけです。野原の土地の買上げは終結して、お寺で調印したそうです。
きょうお墓詣りをして見たら、買い上げられた土地というのは、お墓へゆくあの細い畑の間の道の中程に、右手に入るうねった枝路があったでしょう? あのすこし先からだそうです。お墓のはるか手前からです。昔は綿が植えられ、やがて田になったこのところどころにはねつるべの井戸をもった畑も、間もなく高い塀にかこまれてしまうわけです。田の中をこいでもよいという条件で、農民たちは最後の田植の準備中です。牛をつかって黒い雨合羽に笠をかぶって一生懸命雨の中を働いて居ります。売価では、新しく元の面積はとても手に入らぬそうです。
奥の間の次に(六畳)月三円で小学校の十九歳の女教師が間がりをしています。大変に若くて、きのうは、この四月同期で卒業して就職した友達が来て、いろいろ可憐なお喋りをしていたかと思うと、すぐいかにも若い娘二人の眠っている寝息がきこえて来ました。やがて一人が大きい声で「手をあげて」とねごとを云いました。こちらの蚊帖の中で私は思わず破顔いたしました。すこし話の内容がちがうだけで、ひさと栄(うちの若い人たちよ)とがかたまっているのと似た感じで、何だか可愛いの。勤めにまだ馴れず辛いことが多いらしい。「けど誰にも云えやせんやろ、だから親には何でも云うの、書くと気がすっぱりするさかい書いてしまっちょるの」と云ったりしています。この人がいるし、隣の大工さんは、二階の方をすこし直してぴったりくっついて住んでいるし、決してこちらは淋しくありません。田布施の先にオゴー? というところがありますか? そこの娘さんの由です。兵児帯《へこおび》をしめています。私は、バラの鉢を縁側のそばへもって来たり、今はマークトウェーンの小説をよんでいます。野原の方には本棚があって改造で出した『世界大衆文学全集』などもあります。昨夜は冨美ちゃんにアンクルトムスや紅《べに》はこべその他似合わしいものを見つけてやりました。よそのうちへ行って本棚があるとうれしいこと。
永くなりすぎそうだからこれでおやめ。明日はふっても照っても室積へゆきます。そしてあさっては島田へかえります。きっとあっちもすこしお淋しいでしょうから。しかしそれにお馴れなさるようにとも思ってすこしはこちらにも泊るのです。そちらでも雨が降って居りますか? こちらからのたよりにも、小さい事実というか出来事というか一杯つめられていますね。達ちゃんは無事です又便りあり。
六月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月二十一日 第三十一信 光井
午後四時。やっときょうは晴天です。裏からとって来た矢車草の碧い花が机の上のコップにさしてある。この辺の花の色は実に鮮やかで、野生の月見草、小町草、その他本当に自然の濃いはっきりした日光の美しさを思わせる色をしている。この辺の家や墓地にはいろんな花がつくられている。島田には花を作っているような家は殆どない。
机の上にすこしばかり樹の青っぽい蔭がさしていて、一寸何だか夏休みの或日のようです。そして、すこし、郷愁にかかっている。原っぱのところにずっと見える塀や、工場のような建物や、そこにある一つの顔に郷愁を感じて居ます。私は七月十三日頃にかえります。近頃三十八日以上四十日も留守をしたことはありません。随分珍しい。
きょうは野原の海岸へ初めて出ました。ここは虹ヶ浜とちがって、松林が二重になっているのね。そして手前の古い松林のところはいかにもねころぶに心持よそうです。浜へ出て、舟へこしかけて、叔母さまと二人黒い洋傘をさして沖を眺めていました。浜そのものは虹ヶ浜の方が清潔であるし広いし遠浅でようございますね。この頃は浜防風のとうがたって、丸い手毬《てまり》のような実をつけている、実を覚えていらっしゃるかしら。かえり路は、葭のずっと生えている小路へ、郵便局の酒樽つくっていた建物の方から出て、郵便局の隣りの雑貨店で隣の大工さんにやる赤坊帽をかいました。この雑貨店のおっかさんはいかにもがっちり屋の顔をしているが、店に十一年とか経つ
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