轣Aあしからず。
 本のこと、差し入れのこと、皆お目にかかって申します。鶴さんたちの生活はいろいろむずかしさをもっている、しかしもし鶴さんが、どんな形になろうと、二人の生活を完成させて見せるというところに腹が据わればほんとにいいのだけれど。長くなりすぎるからこの手紙はこれで。

 七月十三日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月十三日
 様子がわからないということは、本当に苦しいときがある。きのうお目にかかる前の日私は割合自分の仕事を一区切りした気分その他でのんきらしい手紙を書いたりして。
 きのうは、あの位立っていらっしゃるのが骨折りではなかったでしょうか、あとから熱が出ませんでしたか。あすこは明るいので顔色のわるいのが目立ったかもしれないのに、いきなりびっくりして、わるかったと思います。でも、余り、これまでより冴えなく見えたものだから。
 ところで、先ず弁当のことはかえりによって調べたところ、私が六月十九日に行ってとりあえず五日とたのんでおいたのを二十五日から五日間入れてしかも一本しかカユでなく四本普通になっていたのでした。四本分は責任を負って何とかするとのことです。何しろあの時分はひどかったそうで、あやまっていました。さぞいろいろ不自由なさったでしょう。そういうことがやっぱりさわって来ているのですね。きのうは二十日までおカユその他を入れました。
 毛布カバーつき、座布団カ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ーをお送りします。お金を四十円送ります。野原のことはこまかく様子をききますが、私として、あなたの体が工合わるいときそういうことまで心を労させるのがいかにも本意ないから、私に何でも云って貰うようにしようと思う。もとより貴方が必要以上に心配[#「心配」に傍点]をなさるとは思っていないけれども、それでも、という気が私に起るのもお分りになるでしょう?
 私たちの条件で可能の最大をつくしてあなたの体を恢復させましょう。その目的のために、私は至急処分するものはしますから、どうか体のために必要なことはちっとも節約せずにおやり下さい。
 当分私たちの全力をあつめて丈夫になりましょう。肉体の性質が或点強靭であるし、精神は十分の支える力をもっているのだから、気候が定り、もう少し暑いなら暑いでカラリとすればきっとましにおなりになります。
 医学的な健康体に私たちはどうせなれないが、平衡を保つことは可能です。それを目ざすことは絶対に不可能ではないのだから。気をそろえてやりましょう。私の知識、私のマメさ、私のもつその他すべての資質が、そのために最小限にしか活用されないのは何と残念でしょう。自分の体の内が苦しいように苦しいのに、それを直接には最小限にしか表現しないで、仕事をしてゆく心持というものを、きのうきょう味っています。これは或る意味で新しい経験ですが、私は決して悄気《しょげ》はしないから御安心下さい。只まだ非常に生々しくてそれに馴れない。
 さて、野原には黒檀《こくたん》の五十円の仏壇を送りました。本当は金ピカなのだろうが、記念の品を納める心持にふさわしいような、但シ格に従ったよい品です。冨美ちゃんには浴衣《ゆかた》と思ったがやめてお金にします。島田を手伝っている多賀ちゃんに浴衣。父上にはいろいろの食料のカンづめと果物のカンづめ。
 私はこの手紙が着かないうちにお目にかかりにゆくでしょう。あんな苦しそうに立っていないでよい方法はないでしょうか。いろいろのことが、もっともっと体の細かいことが気になるから。きょう稲ちゃんと一緒にあなたの夏のかけ布団を注文にゆきました。きっとこれはたけがたっぷりだろうと思います。どうか呉々お大事に。元気に。よくお眠りになって下さい。本を、どんなのをお買いになったか、つい訊かないでこまったと思います。どんなのを送ってよいか分らないから。重複しやしないかと思って。では又近々に

 七月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月二十日 火曜日 晴天  第十九信
 けさは、お手紙がもう着いているだろうと楽しんで下に降りて来たら、来ていない。武田長兵衛から新薬の試用が来ている。御職掌がら先生がたには御頭痛も多いことでございましょうから云々。私は頭なんか痛みゃしない(!)
 今茶の間の机で珍しくこれを書いて居ります。この部屋は六畳で、となりの三畳の境をあけておくと北南風が通って案外に涼しいのです。
 きのう今日は暑いが乾燥して居ますが、御気分はいかが? 御気分は元気でしょうがおなかの虫はいかがな工合ですか。掛布団を送り、只今筒袖のねまきになさる麻の着物とちゃんと袂のついた御新調とを送りました。
 島田のお母さんからお手紙で腎ウ炎をなすったのですって。二週間おやすみになったって。生れてはじめて医者にかかって病気のつらさが分ったと仰云っていらっしゃいます。今私が盲腸のために飲んでいる漢薬の医者へハガキをかいて、腎ウ炎の余後のためによい薬を送って貰うことにしました。それをすぐお送りしましょう。
 達治さんが召集されるかもしれないと御心配です。無理ないと思います。隆ちゃんはもう六ヵ月で入営ですからね。もし達ちゃんがいなくなれば、うちは運転手をやとわねばなりますまい。経済的にそれではキャンセルしかないのですが。一般的な困難がきわめて具体的に一つのわれわれの家庭に反映して来ているわけです。万一そういうことになれば、私たちとして何か些かでも考えることはありますからよいけれども、ねえ。
 林町では国男が盲腸手術後の脱腸(ヘルニア)になって又手術すると云っています。二三日うちにやるらしい。寿江はこの頃近所のアパートに大体落付いて、昼飯や夕飯をよく一緒にたべます。
 Sさんという元からの看護婦が池袋の堀の内にいて殆ど毎日来てくれ、寿江のインシュリンの注射をしてくれる。この頃寿江子は英語の勉強をはじめ、性格にしっかりしたつよいところもあるのに結局はどっちつかずで、人生の評価の土台がない。二十三の女の子というのはこういうのかしらと昨夜も感じました。この位いい素質をもっているのに推進力としての情熱が足りない。体が弱いことに帰しているけれども、それは間違いです。もし体が丈夫でなければよい生き方が出来ないのなら、私たちなんか、年々歳々どこから生活に対するこのような愛や信を獲て来るのでしょう。今岩波文庫のスティブンソンの「若い人々のために」というのを一寸よんでいて、この人が、あんな体で海洋の孤島に生活してしかもどんな人生の見かたをしていたか分って、大変面白い。
 勿論歴史的な違いはあるにしろ。いつか去年あたり私が手紙で書いた情熱と感情《センチメント》のちがいをやっぱりこの人も知っている、さすがであるとニヤリとしました。そして曰く「信は厳粛な経験をつんだ、しかし微笑んでいる大人である。油断なき信は、私達の人生と境遇の横暴とに関する経験の上に築かれる。信は必ず失敗を見込み、名誉ある敗北を一種の勝利と見做《みな》す云々」スティブンソンの「宝島」やなんかを私たちは面白がらないのだが、そういうものを書かせた――自分の条件を最大に活かして――彼の生きる気持には面白いところがあります。精神の活々とした感受性、習慣や反覆でこわばらない心をこの人は持ちのいい心[#「持ちのいい心」に傍点]と云っている。これは柔軟な含蓄ある表現ですね。この表現の中には愉しいものがあるわ。
 きょうは、今月に入ってはじめての丸一日の休日です。あしたあたりから短い小説を一つ書き文芸時評をかき、一寸休んで九月初旬八月下旬までに又たっぷり小説のつづきを書きます、『新潮』。貴方の仰云るように生活をきちんとして、時間を内容ある仕事でぴっちりとはりつめたいと思う。この頃やっとそのこつがわかり、自分もそれに少し馴らされて来たし、仕事と生活との統一の水準が高まりました。覚えていらっしゃるかしら? いつかバルザックが貧乏のためにあれだけの仕事をしたということを、あなたが私へ比喩的に書いて下さったのを。歴史は幾変転して読者の要求が高まるに正比例して、バルザックのような相互的解決が或種の作家にとって外部的に不可能であるところに歴史の妙味があります。
 野原の方のことについて御返事がありましたか? 私の方へはまだであるが、あの地所は広いので、分割して売ると、整理して猶住宅と土地だけは残り得る計算だということは、この間のお母さんのお手紙にもありました。地所が大きいからそういう都合にゆくのでしょう。但し、活動の中心から地理的に遠いため活動的な買手がなかなかつかないらしい。それで整理が永びいているのです。講のほかに近隣からのユーヅーもあるらしい。くわしくわかったら又改めて書きます。
 私はハンドバッグの中にきのう貰った面会許可をもって居ります。四五日うちにお目にかかります。その前に一寸お体のことを調べたいから――私の知識ではあやしいものだけれど。――
 太陽燈あてていらっしゃいますか? 慶応などでも軽い熱のひとはかけている由、時間を加減して。私の手のひらの下にはあなたのおなかの気持のわるいところの感じがはっきりつたわって居ます。そして、私は念を入れてそれらのところを撫でる。何という目の前にある感じでしょう。お大事に。呉々お大事に。

 七月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月二十五日  第二十信
 七月十日づけのお手紙を一昨日いただきました。あのお手紙は最も真面目な心持と新鮮な誠意とでよまれ、それに対しての返事は具体的にいろいろあります。けれどもこの手紙はそれとは別に野原の家のことについてお母さんに伺ったお返事が今ついたので詳しく申上げます。
 お母様の書かれている順に。
 二十五年前、「商売の失敗野原の信吉さんのことで」三千円の頼母子《たのもし》。年百二十円の掛金、元は去る七月十一日に全部すむ。抵当として野原の家屋敷、島田の家が入っていた。
 其後十三四年前に又二号抵当で一万五千円の頼母子。一万五千円の中には野原の借金も相当あったが、「いつの間にか野原の不動産及び家屋敷が全部信吉の名儀に書きかえられていました」、父上がお怒りになったところ、立会人二人が入って、年百十五円の頼母子を二十五年間にかけてすまして呉れよと書きものを入れました。もし返掛しないときは全部不動産は兄へかえすこと。
 二三年は野原でもかけたが、その後はかけず、島田で九回まで年六百円をかけ、その後父上の御病気などの事情から頼母子側で抵当を処分して整理することになったが、兼重萬次郎が心配人に入り、三千円の一時返掛で話がきまり、その負担額を、野原は五百坪もあるから一千六百円島田一千四百円ということになり、この三千円は兼重さんが出した。三号抵当に入っていたのでこれは百八十円、世話人その他の費用百五十円。島田の分は合計千八百円以上の負担となった。これは兼重へ追々かえすことにして頼母子は片づいた。
 野原の頼母子の負担は一千六百円ですが、ほかに自分としての借金が利子とも三千円位あって、これも兼重にかりている。土地は時価四千五百円位。買手がつけば一千五百円ぐらい浮いて、本家の家屋敷ぐらいは保てる。兼重も熱心に買手をさがしているというわけです。
 Tさんの私たちへの情愛の示しかたについてなど、私は自分の心持は別に申しませんが、この間島田へ行ったときは、お母さんもやっぱりここまで詳しくはお話し下さいませんでした。
 お母さんは、事情をあなたが御存じないことを知っているTさんとして、貴方に向っていろいろ事実を歪めることについて御立腹です。そのお気持には私も自然な同感があるわけです。
 島田は頼母子からは自由になっているが、兼重という爺さんにはまだ相当の責任があるわけなのですね。この点も春にはぼんやりしていた。恩給はすっかりお手元に戻っているのですが。
 あなたが全体の事情に対して正当な判断をなさることはわかっているから、私はこの手紙はこれでおやめにします。
 猶おばさんからのお手紙で黒檀の仏壇は、かね
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