黷ニは知らずお風呂へ入れ申したから、ショックの起るすべての条件は完備してしまったわけでした。この位でお止りになったのはふしぎな位。
御様子は段々私が来てから一週間であるが、その間にも気付かぬ位ずつ語彙《ごい》も殖えて来られ、長い文句を仰云るようになりました。しかし、うとうとしていらっしゃるときのイビキは病的ですから決して安心ではない。実に平安に、ソッとして保たなければならないでしょう。私が来たことは大変大変御満足で、お母さんが「もう思いのこすことはありますまい、顕治に会うたも一つことじゃから、のうお父さん」と仰云ると、首をうなずけて、「ない」と仰云る。そんな状態。お言葉は子供の片言です。障子を直したことはこの前の手紙で書きました。この位いるとほんとに家のものになれて私もうれしい。
今も、あなたの手紙を懐《ふところ》に入れて、お母さんと背戸の鶏小屋のところ(十羽いる。七つ八つ九つと卵を生みます)に日向ぼっこしていろいろ台所を直すことや、とりこわした物置を又建てることやあれやこれやを話しました。あなたは蔵つづきの物置を御存じでしょう? あれをこの間とりこわした由。古くなってこけかかったから。今度はその古材木で九尺に三間ほどのものを建てようというのです。
負債のことは、講の片がついて、只今はもう何もタンポに入っているものなし。この決算のことについては三年かかっているそうです。飛田の山崎氏が保証人であったのが、山崎氏もああいう事情で東京へ出てしまわれたので、却って簡単に運ぶようになり、お父さんの旧友で、兼重という七十余の老人が親方の肩入れで、二月七日に万事落着し、五十円ほどのお祝いの宴まですんだのだそうです。お父さんの年金もこちらに戻っています。他にこまかいものが少々あるがそれは五百円ばかりで片がつき、十分ポチポチやってゆく自信がおありの由です。だから、第一の手紙に申しあげたように、私達は達ちゃんの嫁とり条件を少しましにする方向へお手伝いしようとお母さんにお約束したわけでした。
三年前島田へ来たときは、ほんの五六日でした。お母さんをつれてあなたに会わせ申すのが眼目でしたから。その時野原へは夜一寸おじぎに行ったきり。だからきのうは昼からすっかり屋敷の中を見せていただき、私ははじめて真に荒廃したという家の有様に接し、いろいろ深く感じました。あなたは今の野原の家の建ったのを御存じないのですって? 離れのあったところに便所が出来、そこからつづいて八畳六畳の両椽の座敷があり、鶏舎との間に昔からのザクロや大名竹を植えた小庭があり、元の表の間との間の中庭には岩を入れ、池をつくり、そこに金魚がおよぎ、桜が小さい実をつけている。あなたが勉強なすったという二階(台所の先の方から上る)は人が住まぬままになって居り、となりの室のハタ台や糸をかけたままのワクに積年の塵があった。それから鍵の手につづいている風呂の方、又昔油をしぼった小舎の辺、更に奥へ二棟立ち並んでいる大鶏舎。いずれも、春の明るい陽をうけつつ雑草の間に建っている。今あの家には叔父上夫妻、冨美子(十二)で、私はこの小柄な美しくて堅い小娘とあっちこっち廻って歩きながら一種の桜の園を感じました。あなたが、お母さんへのお手紙で、うちのことを知らすのはユリのためになることでもあるし云々と云っていらっしゃる、そのことを思い出しつつあなたの少年時代をも深くその感情に入って感じつつ歩きました。あなたは林町の生活を御存じないから割によいことを多くお考えだけれど、それにしても、こういう時代の推移の姿を見ることは又私には刻みつけられるものがありました。そういう荒廃の中で、中庭の苔は美しく日光をすかして見える。そこに坐って叔父さんは「駅」の父さんが楽しむということを知らないなど仰云っている。母さんがこの頃は金の話ほかせんようになったなど。私は「そうではありませんよ。お母さんは生活の事情によって、ゆとりが出来ればなかなか趣のわかる方ですよ」など喋る。あなたのことも。写真を見たりして。然し、野原は断然整理しなければ駄目です。こちらは島田のように単純にゆかず、(負債について島田の母上も御存じなし、私も何だか伺えない)マアボチボチ片づけていらっしゃるほかないでしょう。Tさんはあなたの御心付をありがとうということです。そして自分でもこの頃は段々考えて着実にやる方針らしい。やはり子供の時からの環境で、体を労して稼ぐことは思い得ないのですね。何か「まとまった金」ということが念頭についてしまっている。けれども、これとても、もうこの道でゆくしかないでしょう。
ジイドは、あなたの御覧のように私も見て居ます。この二月の評論では、ジイドが自分の抽象的な誠実性の故に誤られて現実を見る力を失っている。そういう作家の矛盾の点をとりあげていた
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