下でお父さんが「お后《ゴー》、お后《ゴー》」と呼んでいらっしゃる。私は「ハイ、ハイ」と降りかけ「お后《ゴー》さまは今御用ですよ」御小水? 合点をなさる。用意してあげると「手をかせ」、私の手につかまって体を横になさるが、今度は勘ちがえ。それから起き上らせてあげて、背中のうしろにつめをかって、ラジオをかけてあげる。今甲子園のゲームです。あたりが静かなので「投げました投げました!」いう声が、窓の軒の下からきこえて来る。蛙が円い声で鳴いている。今日は勘定日でお母様はきのうからその準備で御多用。達、隆二人は、虹ヶ浜とかへお嫁の荷をつんで出かけました。きょうはそっちもいそがしい由。
 一昨日は今度病気をなすってからはじめて腰湯をつかわせ申しました。丁度二人が午後あいたので、家じゅう総がかりですっかり洗ってあげ、さぞさっぱりなさいましたでしょう。言葉が自分ではよくおっしゃれないが、話はよくおわかりです。この間お母さんと宮島へ行った留守など、店の番をするからそこの襖をあけておけと、来る人にちょいちょい応待なすった由。段々元に近く快復なさる。夜、御飯がすむと、こたつのまわりに皆あつまって賑やかです。外へ出て見て、外が暗くてしんとしているのにびっくりする位家の中は生々としています。お母さんを見て、家の中心になる女のひとの気質というものがどんなに大切かということを感歎します。お母さんは家宝ですね。私は女の先輩として、なかなか敬服措くあたわざるところがある。理解力にしろ、生活の地力であすこ迄高めていらっしゃるのですから、実にフレキシブルです。そして労苦の中からよろこぶことを学び、その感情をなみなみと持っていらっしゃる。本当に傑作です。お父さんは、今、わきから見ていると、もう全くお后《ゴウ》さまに依っていらっしゃる。一種の美しさがある。勿論今でも時々かんしゃくは起しなさるらしいが。ずっと床についていらしても大きい骨格で、広い厚い肩で、その肩を私が自分の胸いっぱいに受けて抱えてあげたりしていると、何だか錯雑した二重うつしのような優しい感動を覚えます。骨格は、あなたはお父さん似でいらっしゃるのね。
 明日あたり、多賀子さんと野原へゆきます。この次来るときにはどうなっているか分らないから。海岸へも行って見ましょう。
 海岸といえば、ゆうべ虹ヶ浜の話が出て、何とか家のくり合わせがつき、お父さんの御様子が順調だったら、夏は虹ヶ浜のあなたのいらした家でもかりておつれしたら等話しました。これはまだ全く未定です。お父さんはお后《ゴー》さまなしでは日が越せないし、お后さまは家がなかなか手ばなせないし。
 隆ちゃんに私たちとして『早稲田商業講義録』を一年分申しこんであげました \15、広島の簿記学校へという話も出たが、そこはボキ専門で、それほどの偏《かた》よった勉強は必要ないので、マアボツボツやって行ったらいいでしょう。隆ちゃんもこの頃は段々遠慮が減って、すこしは喋るようになりました。なかなかいい子です。達ちゃんは、かえって来た当座は、自分が二年兵で初年兵を命令にしたがえていたその癖で弟と一緒が却ってうるさいようだったのだそうです。それでも、お母さんの舵とりよろしく、今日では互に扶けあうが、やはり兄弟は面白いものね。兄さんの方が全責任を負う(雇人対手のように)気にならず、隆がこう云ったからなど云い、ごたつくこともある由。でもいいのですよ、結局は。
 あなたは何日頃こっち宛の手紙を下すったかしら。お目にかかったのは三月の十五日でしたが。――
 私は二階の、裏山の見える方の窓の下に机をおき、本をよんだりこうして手紙をかいたり。きのうあたりから一日に三四時間ここで暮します。私は四日にお父さんのために臥ていて外が見えるように、茶の間の障子を作りなおしたのが出来て来るから、それを見たら五日頃かえることになりましょう。私は令名サクサクな東京の奥さんなのですが、仕事をエイヤッとするにはやはり東京がよろしい。そして、もしお父さんの工合がよかったら夏、虹ヶ浜でお暮しになるようにしてもよいと考えて居ります。御機嫌はいいことと思って別に伺いませんでした。きのうあたりから又寒い。猫の仔が五匹います。では又

 四月二日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 四月二日。晴 島田からの第三信
 待ちかねるようであったお手紙がやっと来ました。あなたは三月十八日に書いていて下すったのね。それが着いたのは今朝です。
 このお手紙に一つ一つ答えて参りましょう。お父さんの御容態についてはこれまでの手紙で書いた通りです。今後の御発病の原因は、危険なことであったが、岩本氏(東京の)が結婚してはじめて見え、お酒が出て、お父さん、こっそりそれをおやりになったのですって。夕方、若い連中がかえって来て、そ
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