ノ一寸もたれ込むものをもっている人々は、暫く風をいなす気でそこにもたれて遂にえらいことになる有様です。私は幸、乱作ではない多産の時期に入って来たらしい様子です。本当に仰云る通り完成をしきった段階というものはないのだし、自分なら自分というものに現れている過渡性が、どういう歴史性を語っているかということが客観的に把握され、その意味を客観的に評価出来るところまで力をつくして生きて居れば、自身の所謂未完成をおそれる理由はないのです。
現在の私は仕事の軽重をよく見きわめて整理して、基本的勉強を怠らず、体を気をつけて、仕事と休養のバランスをつけることです。私たちの生活が段々深められ成熟して、二人をおく条件に阻害されることが益※[#二の字点、1−2−22]減って来るということは何という歓びでしょう。私たちはこうして自分たちの不動な幸福をつかんで行く。そしてつかんだものは決して手離すことなく豊饒になってゆく。ユリのそのキャパシティーを鼓舞して下さい。
おみそ汁が買えることは知らなかったからああそれはよかったと、口の中にいい味がした。沢山は発酵するがすこしずつはきっといいのではないでしょうか。私がこしらえた辛い辛いおみそ汁!
Tさんたちのことは、私もいろいろ心配して居ります。いつも互のなすり合い以上のところに原因があることを云っているのですが。――こんど又書きましょう。しかし本当に合点させることは容易ではないでしょう。
私は昨今仕事の参考に必要になっていた『日本文学全史』(東京堂)久松潜一の『日本文学評論史』(上下)等を買いました。何しろ「もののあわれ」「ますらおぶり」が一部のアプ・トゥ・デイトですからね。久松氏の仕事は箇人でだけ問題を見ている範囲ではあるが、私の欠けている知識は与えます。それから、カールの書簡集の部分などぬけたままになっているから、其を補充します。当分のうちに役立てるのが一番有効というのは切実にわかります。それから、いつか、父の記念出版に私の書いたものについてあなたの仰云ったこと覚えていらっしゃるかしら。私が[#「私が」に傍点]あれだけでも書いたというのは云々と私が云ったら、もし書けないのなら云々とあなたの仰云ったこと。思い出して下さい。そういう場合も予想されないことはない。私は自分たちの生活と文学的業績に対しては飽くまで純潔であることを望んでいるのだから。大変抽象的だがお分りになるでしょう。とにかくあらわれた形はどうあろうと我々の生活の成長のためにこそ活用されるべきなのは云わずとものことなのだから。
私の盲腸何とうるさい奴でしょう。此奴《こいつ》のために、私の休養の形は安静、床に休むことになって来る。おなかの右下四分の一にだけ邪魔ものがいる。きのうきょう、これがバッコしているのです。今月のうちに科学と文学のこと(科学ペン)婦人作家の今日(文芸復興)この間ハガキに一寸書いたブルムの結婚観の批判(婦公)をかき来月から又すこし沢山小説をかきます。ではどうかお大事に。
八月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(絵はがき二枚 小田原海岸(一)[#「(一)」は縦中横]と小田原駅(二)[#「(二)」は縦中横])〕
(一)[#「(一)」は縦中横]八月二十八日午後二時すぎ。
国府津へこの頃通用するようになった全国速達で原稿を出しに来たついでにバスで小田原まで来ました。この駅の右手にコウズのあの茶屋が大きい店を出している、そこで今御飯をたべようとしている、赤く塗った椅子その他、箱根気分のところです。国府津からバス20[#「20」は縦中横]銭。出征送るのでとても大混雑です。
八月二十八日(二)[#「(二)」は縦中横] 小田原の御幸ヶ浜に遠い親類のやっている宿屋があって子供のうちよくそこへ来ました。ある正月、チリメンの長い袂のきものを着てこの浜の波打ぎわの砂丘に腰かけていたらいきなり砂がくずれて波の中におっこちて本当に本当に死んだと思ったことがあった。大体ここも海は荒くて入れません。この食堂の隅に老夫婦居り父母を思い出します。
[#次の手紙は「遺書」として書かれ投函されなかった。底本では第十九巻の巻末に収録]
一九三七年八月二十九日
一九三七年八月二十九日 日曜日 晴
顕治様 国府津。
きょうは、爽やかな風がヴェランダの方から吹いて来ている。セミの声が松の木でする。海の方から子供らが水遊びをしているさわぎの声が活々と賑やかにきこえる。――平凡な午後です。
私は今日書こうと思っていた仕事がすこし先へくりのばされたので、長テーブルの前で風に吹かれつつ、この空気を貴方に吸わして上げたいと沁々思いながら、裏から切って来たダリアの花を眺めているうち、ああ、きょう、あの手紙を書こうと思い立って、これを書きはじめ
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