ワした。この手紙は謂わばすこし風がわりの手紙です。何故ならこうして書いている私自身が、いつこれを貴方が御覧になるかということについては全く知らないのだから。
それにもかかわらず、私はこの手紙は必ずいつか平凡な体も心もごく平穏な一日に貴方に書いて置こうと思っていたものです。このことを思い出したのはもう随分久しいことになる。私が市ヶ谷にいた頃からです。
健康の力が、私の希望するほどつよくないということ、しかし、私たちは斯くの如く夾雑物のない心で歴史の正当な進展とそこに結びつけられている自分たちの生活を愛し、互の名状しがたい愛と共感とを愛している以上、或場合、私の生きようとする意志、生きる意味を貫徹しようとする意志と肉体の力との釣合が破れることが起るかもしれない。それでも、私はやはり人及び芸術家として、自分の希望する生きかたをもって貫こうと思っている。芸術家に余生[#「余生」に傍点]のなきことは他の、歴史に最も積極的参加をする人々の生涯に所謂余生のないのと、全く等しい筈であると思う。私たちに余生[#「余生」に傍点]なからんことをと寧ろ希いたい位のものです。
私はこういう点では最も動ぜず、正当な理解をもつ幸福にある。それでね、私はいつどのように、どこで自分の生涯が終るかということは分らないが、最後の挨拶とよろこびを貴方につたえないでしまうということはどうも残念なの。私は、こうして互に生きていること、而して生きたことをこのように有難く思い、よろこび、生れた甲斐あったと思っているのにその歓喜の響をつたえないでしまうのは残念だわ。このようによろこぶ我々の悦びを、何とか表現せずにしまうということは。
よしんば永い病気で生涯が終るとしても私があなたに会えたことに対する、この限りない満足とよろこびとは変らないであろうし、ボーとなってしまってポヤッと生きなくなってしまうのなんかいやですもの、ねえ。
ああ、でもこの心持を字であらわすことは大変困難です。体でしかあらわせない。私たちを貫く知慧のよろこび。意志の共力の限りない柔軟さ。横溢して新鮮な燃える感覚。愛の動作は何と単純でしかも無限に雄弁でしょう。互の忘我の中に何と多くの語りつくせぬものが語られるでしょう。
私と貴方との境の分らなくなったこのよろこびと輝きの中で、私の限りない挨拶をうけて下さい。
貴方について私は何の心配もしない。貴方は私のように不揃いな出来ではなくて、美しい強固さと優しさと知に充ちている。私はその中にすっぽりと自分を溶かしこむこと、帰一させてしまえるのがどんなにうれしく、楽しい想像だか分からないのです。もう自分というものがあなたと別になくて、間違う心配もなくて、離れている苦しさもなくて、一つの親愛な黒子《ほくろ》となってくっついているという考えは、私を狡猾なうれしさで、クスクス笑わせるのです。
そして、もう一つ白状しましょうか、私の最大の秘密を。それはね、この頃私の中につよくなりまさりつつある一つの希望。それは、私がさきに、あなたの中にとび込んで黒子になってしまいたいという動かしがたい願望です。だから、あなたがこの手紙を御覧になるときはその点でもユリ奴《め》、運のいい奴! と私をゆすぶって下すっていいのです。ホラね、と私はほくほくしてくびをちぢめて益※[#二の字点、1−2−22]きつく貴方につかまるでしょう。
涙をおとしたり、笑ったりしてこれを書いて、海上を見渡すと実によく晴れて、珍しく水平線迄が澄みきっている。
いかにも私たちの挨拶の日にふさわしい。ではこの早く書かれた手紙を終ります
わが最愛の良人に。
[#地から5字上げ]ユリ
九月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(封書)〕
九月一日 夜十一時半 第二十八信
林町のテーブルで珍しくこれを書いて居ます。急にバラバラ雨の音がしている。明朝緑郎がフランスへ立ち、咲枝が送りがてら神戸の友達のところへゆく。倉知の俊夫(咲の兄)が召集されて出かけ、従弟の倉知|紀《ただし》が又呼ばれて出かけ、春江の良人河合(咲の義兄)があぶないと云う工合で、この頃の空気がつよく反映しています。
さて、昨日は疲れていらしたところを却っていけなかったかもしれませんでしたね。口がお乾きになる様子でしたね。しかし、秋になって気候も落付いたら追々きっと調和が保てて来るでしょう。理想的に行かないにしろバランスがとれるようになるであろうと確信して居ります。
きのうはもう時間がなかったので、けさ予審判事にお会いして、体に関する条のことお話しておきました。それに関する部分だけのこととしての私の理解に立って。
本とりそろえて最近にお送りします。私は明夕又国府津へ行って六日頃まで居るつもりです。菊池、越智氏のことは島田のお母さんに伺っ
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