l間の進歩の関係を見ることに於ての誤りは皮膚だけ[#「だけ」に傍点]かえるところにあると批評されているが、皮膚を代えるのは生理的現象であるとして丸善の小僧氏は医学書の間に入れてある。実に善哉善哉である。近来の傑作です。こちらで私は全く神経の休養とその間にゆっくり仕事をすることを眼目にしているので林町からも誰も来させない。台所の方にずっと留守番をしているおミヤさんという六十四のお婆さんひとり。父が私がここで勉強するためにテーブルを一つ買ってくれた(一九三五年の初冬)。それを今日三年ぶりであけようとしたら(引出し)狂ってしまっていてあかない。広間のテーブルが夏なので室の中にタテに置いてある。あの大ソファは炉に背を向けてTの字に。そのテーブルのところでこれを書き、又仕事もするつもりです。私は大変意気地がなくてわるいが、全くこの間うち少し病気のようになりました。例えば、ああこの風に一緒にふかれたい。そういう感情と、ああこれをたべさせて上げたい、ああこの風に吹かせてあげたい、そう思うのとでは感情のニュアンスが実に実にちがう。ああこの風に一緒に、だと私の目の中にもう一つ目ありのくちで、風よ我らを共に吹けでどこへでもスースー行って平気だが、吹かせて上げたいとなると、もう何だか涼しくても切ない、美味くても切ないでね。だから病気のようになる。そして、おお畜生、自分が病気の方が楽だと思って呻《うな》る。
 でも、私は又もう一つ勇気を起して、この切ない心持もちゃんと持って身につけて、平静な明るさをとり戻しますから、どうか御安心下さい。ここに月末までいて、すこし神経を休めたらいいでしょう。よく働いたも働いたし。この次手紙を下さるときどうかユリのこの心持におまじないをして下さい。ユリよよく眠れ。よくうまがって食べろ。楽しめ、笑え。そして俺のこともよく心配しろ、と。
 ほほう、私は大分アンポンの本性を露出していますね。でも、私自分ひとりで、私が元気でいればそれは貴方もよろこんで下さると納得させて居切れないのです。ホレ、しっかりして、とおしりの一つもぶって下さい。
 この間うち一日一枚のエハガキをはじめたのだが、御覧になっていますか? 甚だ心もとなし。ではこれから仕事(『報知』月報)の準備にとりかかります、お大切に、お大切に。

 八月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(封書)〕

 八月二十四日 国府津  第二十六信。こういう書簡箋が出て来たので。
 きのうは、実に実に珍しい大雷雨でしたが東京はどうでしたろう。ああ降る! 降る! と白雨煙るのを眺め、そこの屋根に沛然と雨の注ぐ気持を考えたけれど、降ったでしょうか。天と海上との間に火の柱が立った。はじめての見もので壮大、かつ恐しかった。こういうときの雷は地軸をゆるがすという形容そっくりです。裂ける如し。
 時評を書いています。あと二回で終る。今度は、むくみも引いたしよく眠るし成績はようございます。
 あなたはいかがでしょう。よくおよりますか。私はいろいろの意味でこういうところに十日以上暮している辛棒はないから、これからは余りへばらないうち三四日本をもって来ようというプランです。
 この海岸は御承知の通り海水浴場がないからその点ではさっぱりして居ります。遊びに泳いでいる者一人もなしです。私は豆腐ばかりたべている、それから胡瓜《きゅうり》と。二十九日に緑郎がパリへ立ちます。音楽の勉強のために。福沢の孫で法律をやっている青年と一緒。緑郎は何か得て来るでしょう。どうかお大切に。国府津へ原稿を出しに出かけるのでいそいで一筆。

 八月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(封書)〕

 八月二十六日  第二十七信
 今朝十六日づけのお手紙が来ました。東京からお久さんの付箋《ふせん》がついて。
 二十二日にこちらで書いた私の手紙はきっと今月の終り或は私がお会いしてから後についたりするのでしょうが、このお手紙に、ユリもどっかへ行って休めとあるので私は大変気が楽になった。去年の夏は体がしゃんとしていなかったのに馬力を出したからいけなかったし又、疲れを休める適当な方法を知らなかったのでドライブしたりしてしまいました。
 今年は疲れかたのタイプも休むタイプも会得したから、ドライブなどしないし、ここでも日中は日かげでいてつよい光線に直接当らぬようにこまかく注意して居ります。きのう寿江子が太郎をつれて来て、私の顔色がましになったと云っている。二十三、二十四、二十五と、毎朝十一時に国府津へ行って原稿を送り出し、五回の時評が終って、きょうは休み。
 作家が客観的に全面的に押し出されていないと作品においても萎靡《いび》するというのは真実です。今日のような社会の雰囲気の中では、この点が実に実に決定的な意義をもっています。どこか
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