ノ」に傍点]こういうことを云い得るのだろうか。今日良心をもって生きていようとする作家の努力を作家だから安易であるという風に概括出来るのだろうか。偸安《とうあん》的でない作家が、そして私のような愛情で生きている女が二つのもの(態度)に足をかけて、ふりわけで生活してゆかれるなどと思うということはあり得るのだろうか。等々
 今になると、私にも自分の心持の観かたの主観的だったところは分って居ります。貴方が仰云ろうとしたことも分るわ。貴方にそれを云わした感情の本質も。私たちは、或ことを話し合うに一番適した場合=心持に=を選ぶことが出来ない、又表現を細かく行届かせて話すひまのないということのために、何という思いをしたことでしょうね。けれどもあのことは私にいろいろ教訓を与えました。
 文学の仕事の上で、実質的な評価と他のものとの関係は丁度シーソーです。そういう時代である。私はそういうものに対して乱さず生活を押してゆくのだが、貴方に向うと私はどうもナムアミダブツ宗のようね。時々お数珠におデコを撫でて貰っていい気持になりたがるところがあった、アナ恐ろし。私の理屈がおくれていると仰云ることはよく分る、だが、私のような女でさえ、一番苦しいこと、一番我慢ならないと思う(主観的に)ことでムクレると、ああいう墨を吐くところ、(リクツのようなのは外の形だけよ)私は自分の日本婦人的事情を感じます。正体云々とお笑いになったが、私のみの正体でない。大変そのことを感じます。お手紙を楽しみにして待ちます。では又

 五月二十四日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(ゴッホの絵の絵はがき)〕

 五月二十四日、雨が降りますね、きょう、やっと合シャツやセルをお送りいたしました。おそくなって御免なさい。『改造』の小説42[#「42」は縦中横]マイは「猫車」という題。もう一ヵ月ばかり前のやはり雨の日、ぬれた青葉の美しさにひかれて歩きに出て雑司ヶ谷の土管などつんである辺を歩き木の下の小さい家を眺めたりしたことを書いたエハガキ御覧になりましたか。こういう大さのは手紙並なのを知らなかったから或は駄目だったかしらと思います。キレイな絵だったのに。――

 五月二十九日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月二十九日 小雨  第十五信
 きのう、二十五枚ほど「マリア・バシュキルツェフの日記」について書き終って、
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