二日、小雨ふったり、やんだり。きょうは山の中から出かけて、二人は毛襦子の大コウモリをつき、善光寺見物です。善光寺下という電鉄の駅でおりたら陸続として黄色の花飾りを胸につけた善男善女が参詣を終ってやって来る。四十以上の善女が多い。今は付近の小管という家で名物のおそばをたべようというところです。寺はつまらぬ。長野という町は山々を背に何となく明るい雰囲気をもって居ます。山々の中腹に白く靄《もや》がたなびいて雨中山景です。
 ソバは変にニチャニチャして、ちっともおいしくありませんでした。手打ちソバなどたべさせぬひどいもの也。

 十月十二日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(封書)〕

 十月十二日(月) 第十六信
 九月三日に下さったお手紙は十日につきました。あなたが、私について、一層生活の達人になるようはげまして下さること、本当にありがとう。そのことは、近来自分でも益※[#二の字点、1−2−22]はっきり感じて居ることでした。何故なら一昨年の六月以後去年の五月までの間に一昨年の九月頃まで体が悪くていたにもかかわらず、一冊の『冬を越す蕾』がまとまるだけの仕事をしました。今年にして見ても四月以後今日までに私の体の事情に合わせれば、相当の勤勉さです。時間のつかいかたをもっと巧みにすることと、それは私を徹夜から防ぐためにどうしても必要です。全く私は変なウシミツ時にあなたに喋りかけては、計らずしっぽを出してしまいますものね。(でも私は小さいしっぽであろうが、大きいしっぽであろうが、あなたにはお目にかけずにいられないのだから、どうぞあしからず)
 私は年に一つは本の出来るだけに働くプランです。今年は或は暮れに近づいて二冊出るかもしれません。評伝と別に白揚社が感想集を出すと云っているから。――
 ところで、ここでの生活ぶりについて何と書きましょう。――私としては珍しい表現でしょう? つまりこれは、落付こうと努力しつつ落付けずにいるということになると思います。
 ここの自然は実によくて、或はそのために落付けないのかしらとも考えます。きのう迄は部屋の都合で落付けなかった。丁度山々では紅葉《もみじ》が赤らむのでね、善光寺詣りの団体くずれが、大群をなして温泉めぐりをやり、渋《しぶ》からこの上林へとくり上って来る。それらの連中はこの家から少し上の上林ホテルというのにつめこまれるが、この家では二晩おきに、二晩つづいて、奇声を発する変なチビ芸者をあげてさわぎがあり。小学校の先生が集団的にさわぐのです。ドタンドタン殺気と田舎らしい荒っぽさのこもった遊びぶりで、二階じゅうがゆれる。あげくに、廊下ですすり泣く声がして「よし、わかった、ナ? ええ、ええ」などと同僚になぐさめられている先生がいる。そういう有様。海抜二千八百尺のところでも、おお自動車の便利さよで、こういう光景が展開される。その自動車があるので、私は胸も苦しくせずに五千何尺(海抜)という志賀高原へのぼることも出来るのですが。戸外で山をながめ、引しまって新鮮で濃いような空気を吸っていると私は大変いい心持で休まって、さて、家へ入り仕事をせねばならないと思うと落付かぬ。これは妙な心持です。その原因についていろいろ考える。結局ユリは東京で徹夜しないようにして働いているのが一番「うれしがって、仕事をしている」状態らしい、そして、時々四五日、山の空気を吸いにでも来る方が。この心持はどういうのだろう。外部的な事情からではない、東京には私たちの生活があり、ここなどでは半分きりですからね、何だかダメだ。半分と半分との間で無理に延ばされ、ひっぱられているものがあって、だから駄目です。尤もこれは一方的な感じかたかもしれないのだけれども。
 十六日にお目にかかったら、途端にああ、休まったと感じるだろうと思っておかしい。ホウ、ユリのバカ。
 でも、日にやけたし、体がしまったし、脚は丈夫になったし、決して効果なしではありません。その点は御安心下さい。おかしいでしょう? だから主観的な私の心持の複雑な交錯にかかわらず、生理的な条件はよくなっていること確かです。きょうの手紙は永く書いても同じ。これでおしまい。

 十月十四日夜 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(中沢弘光筆「北信濃風景」の絵はがき)〕

 このエハガキに描かれているところは今は一面の段々の田で、稲が実り、背景の濃い杉山とつよい色調のコントラストです。多分この左手の方に一米十円をかけたという一万メートルの志賀高原へのドライヴ・ウエイが通って居ると思います。雪は上林で三四尺の由。志賀の上では七尺だそうです。冬の健康法を私は、雪の中で頬っぺたを赤くしてやりたいと思う。ポコポコしたところへ逃げずに、ね。
 中沢さんの絵では雪のブリリアントなところが出て居ません
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