fig33185_01.png)入る]
 きょういただいたお手紙はいろいろの意味で、美しさに満ちて感じられました。だからこうしてこの日のまわりには花飾りがつけられたのです。ヘーゲルの話は大変面白く思いました。何故なら私はこの手紙の二十九日の分で書いているように、ヘーゲルが筋の立った理屈にまとめて考えていることを全身全心で感覚し、その中心情熱によって、さまざまの感情を高き低き生活の峰々として統一して押しすすめているのだから。
 私は本当に他出という表現で云われている、それよりもっと生々しい緊密さ、謂わばこっちが風邪をひけばそっちも風邪をひく位の肉体的な感じで感覚している。何のために生きているかということが、はっきりしているからこそ、私は主観的には迅《とう》に悲劇を脱却しているわけです。只人間生活の歓び確信というものの、最も鋭い、最もニュアンスに富んだ、最も出来合いでないものの感じ得る陰翳《いんえい》――それによって明暗が益※[#二の字点、1−2−22]生彩を放つところの、動く生命力の発露として、苦痛をも亦愛し得るだけ生活的です。私があなたにあげる手紙の中で、我々の生活には何が一番大切かということに触れて書くとき私はその答えが分らなくて書くのではないのですよ、答えはわかって居て、心に響となって鳴っていて、何とも黙しかねて、字にまで溢れるという工合なの。あなたが、そういうことにもふれて、きょうのような手紙を下さるのも私には大変にうれしい。私の生活について書いて下さることは勿論必要なものとして摂取されずにいるわけはないのですものね。
 私は愚劣なものの中からさえ役に立つものがあれば何か役に立つものを見出そうとする位、よくばりなのだから。まして。まして。恐らくあなたは御自分の字、字そのものよ、までが私にどの位必要なものであるかきっと御存知ないでしょう。
 恐ろしい、動きのとれない現実はないと仰云るのは本当です。私だって、それは知るようになったし、云わば一人の人間が自分だけ動きがとれない心持でいるのに、客観的な現実はどしどし推移してゆくところに、現実――生活の力強い波動があるとさえ云えるのだから。只どうぞ、「失うものは借金ばかり」とおえばりにならないで下さい(ホホー。)
 私は今特にどの点について「事情を改善することにつかれた」心持を書いたか覚えて居りませんが、経済的なことではないのよ。私自身にしろあなたひとりは威張らしておいてあげられない位「失うものは借金」の組ですからね。何がこの人生において合理的な生きかたであるかというようなことを心持の上でわからせて戸主気質から少しでも解放してやりたいこと。妹に真の自立性というものを教えて、勝気のために却って歪む自尊心の負傷を少くしてやりたいこと。咲が自分の亭主に対してもう少し正しい健康な意味での影響をもつように、そうしてよいものだと確信するように。それらのことは、私が家を別にして生活すると出来難いからいるうちに改善してやりたいと考えた、そのことであったろうと思います。疲れたというのは、自分たちが腹からそういう要求をもっていないから、皆敬意と一つのチェホフ的翔望[#「翔望」に「ママ」の注記]をもって、
 ほんとねえ、そうしたらどんなにいいだろう!
と深く呼吸をするが、実際の生活はその古い道を流れている。食うに困らぬこと、即ち生活にこまらぬことと思っている。そんなような気がしているらしい。その中で改良に疲れたと云ったのでしょうと思います。
 国など「姉さんがいなくなったら僕も大変だ、よっぽどしっかりしないとダラクするね」と云ってはいるが。何か反歴史的な執着などから経済的にもその他にもごたついてはいないのです。どうかそのことは御安心下さい。悪いものではない。だがどうも困る。そういう存在を今のような歴史は沢山に包括して居りますからね。
 私の手紙が第五信までついて居る由。ところで私の今書いているのには第九信と番号が打ってある。十二銭の切手を貼ったのを御覧になりましたか? すると私は一つ自分の番号をとばしてしまったのかしら。或は今のが第八信に当るのかしら。とにかくこの頃はウンウンでね。偉大な価値の評価が正当にされるようにされないということ、それが私の努力の動因です。単にまつり上げるのでなくて、一箇の芸術家は自分の才能をどのように生かして来たかどんな力ととり組み自身の矛盾ととりくんで来たかというその突き入るような分析、綜合、生きた人その人がそれをよんでああ自分は斯うであったかと三歎するようなもの、そういうものをつくる決心で私はとりかかって居ります。半分ばかり終りました。書きながら私自身の生長も自覚されるような、そういうものを書いて居ります。よろこんでいただけるだろうとたのしみです。
 きのう十国峠で採って来た
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