変印象づよかった。かえりには大森の沢田屋でカニをたべ、賑やかなのにびっくり致しました。十国峠の入口はこのエハガキのようになっていて、八十銭とります。ゴーラの方は一円五十銭を橋銭のようにとる。そこでこのハガキを買い、スタンプを押させました。芝居がかって可笑しい写真! 右手の方へ行くのです。この夏はじめての遊楽でした。又こまかくは手紙で。
八月三十日午後 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
第九信。八月二十七日の夜から。
きょうは体によくない天候でしたが御気分はいかがだったでしょう。皮膚がひやっとしていて汗がじっとり出る。今も出ている。八十度一寸出ています。月夜だったが今は霧が漂っている。湿気が多いのですね。『二葉亭全集』をよんだら扉に「ロシア文学は意識的に人生を描いている。それが日本の文学と違う」と書いてあった、鉛筆で。昔あの本をあなたは古本でお買いになったのかしら。十九世紀のシムボリストのところ(別な本)を見たらカントの哲学との関係についてノートがあって面白い。いろいろ面白い。万年筆でひかれてある条の傍に更に点をうってゆくようなこともあります。そういうときは大変に又面白い。(もう眠ろうとしてメガネをはずしたのに、フトこの紙が目に入ったので一言お喋《しゃべ》りを)
二十九日の午後。
暑い日光が青葉青葉にさしてすこし錆びた緑金色の輝が庭に一杯になっている。アルプスの山の中の羊飼の男のヨーデルの合唱が聴え、日本の豆腐屋のラッパの声がそれに混っている。私は何を別に話すというのではなく、貴方に呼びかけている。それは、呼びかけるということが、実に沢山の、云いつくされない沢山の感情と感覚との圧縮的表現だから。感覚的な、感覚が話す話はなかなか字に出来にくいものですね。――芸術家というものがこの感覚的なものによって生き、人生をさぐり、そのものの内容をより豊富にしてゆく過程は面白い。
本当に打ちこんで勉強し、ものを書いてゆく快よさを、本当に感覚的に知っているものこそ、真の作家になり得る可能性をもっていると思います。ジイドは、ロマン・ロランとともに外国の作家としてはいつか勉強したいが「贋金つくりの日記」の中に感情と情熱との相異について書いている。その相異を知らぬものが、人生から感得するものは、いかに貧弱であるかということを云っている。私はこの三四年作家として猛烈にそのことを感じ、二三の場合、話したこともあったがわかるものがなかった。さすがジイドである。そうでしょう? あなたはこのことは分っていらっしゃる。けれども、私がハッとそのことを思う折々にすぐ、傍を向いて、「ね、こうでしょう? だから!」ということは出来ない、残念であるが。二人分を感じて、私の心は撓《しな》うようです。撓いつつ甘美な苦痛を感じて、折れないという自覚のよろこび。
抽象的なことを喋って御免なさい。でも時々はこれもいるのです。私の精神衛生の見地からね。(笑い声は小説家が苦心するところです、今も困ったわ。私は笑っているのだが――)ああ、私共は、沢山沢山感じて生きているのだからね。
――○――
この頃沢山読む本は、いつか前に書いたときつかったもので紙がはさんである。もう古びて。こんどは、又この次の便利のために、必要なところには昔の人のはり紙のように紙を貼って見出しを書いて居ります。一目瞭然で大変によろしい。その紙の切ったのを沢山こしらえて、一つの小さい箱に入れておいてある。その箱はパリで、母が誰かのおみやげにやると云って買ったのの残りで、本当はマッチの飾箱なのです。金色のレースが張ってあって、細い色リボンの花飾りがついていて、ローマッチをこするザラザラがある。ロココまがいのけちくさいもの。その中から紙片を出して本に貼る。
ガラスの角ばったペン皿のとなりに置いて。ペン皿には御存知の赤い丸い球のクリーム入れがあって、太郎が二階へ来ると、私はいそいでそれをかくすの。握ったら可愛がってはなさないのです。ところがおばちゃんにしろ、これをどっかへころがされては一大事とばかり、太郎と同じように眼玉をギラギラさせるの。可笑しいでしょう? きょう千田さんから電話、うちの小さい子供が話をするというので私の話、「ああもしもし、きこえる? 私はね、まだあなたにあったことはないけれどね、あなたが生れるときリンゴの煮たのを母さんにあげたことがあるのよ。こんど会いましょうね」
太郎はまだ後輩故卓上を握ってア、ア、というだけ。
きのう二百哩ばかりドライヴをした、いろいろの話を書くのが順のようだけれども、きょうはあなたが八月二十二日に書いて下すった手紙が朝食堂のテーブルの上にのっていたので、先ずそのお礼を申します。
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