して黙り込む。だが、すぐ別のことから、同じ問題へ立ち戻る。
 親たちの日常生活は勤労階級の生活でなく、母親は若い頃からの文学的欲求や生来の情熱を、自分独特の型で、些《いささ》か金が出来るにつれ、その重みも加えて突張って暮して来た。社会の実際とは遠くあった。弘道会という今日では全く反動的な会へ、自分の父親が創設した因縁から始終出入りしていた。マルクシズムに対して母親の感情へまで入っている材料は、その会で博士とか伯爵とかが丁寧な言葉づかいで撒布するそのものなのであった。
 母親は保守的になって、しかも仏いじりの代りに国体を云々するようにその強い気質をおびきよせられているのであった。
 疲れるといけないからと母親をかえして、元のコンクリートの渡りを、鼻緒のゆるんだアンペラ草履で渡って来ると、主任が、
「え? 世の中は皮肉に出来ているもんだね」
と声をかけた。
「…………」
「おっかさんは心配していろいろ云われるが、却って対立をはっきりさせる結果になるばかりじゃないですか。ひ、ひ、ひ」
「――――」
 監房に入っても、自分は考えに捕われていた。情勢は、こういう風なモメントを経て、多くの中間層の家庭を様々な形に崩壊させて行くのである。そして、敵は抜目なくその間から自身の利用すべきものを掴むのだ。
 向い合って坐っていた女給が突然、
「いやァ! こわい!」
と袂で顔を押え、体をくねらしたので、自分はびっくりして我にかえった。
「どうしたの?」
「だってェ……あんた、さっきからおっかない眼つきして、私の顔ばっかり見つめてるんだもの……」
「そうだった?」
 思わず腹から笑い出した。自分は、ただいつの間にか一ところを見つめていたばかりで、それが誰かの顔だか壁だか、見ているのではなかったのであった。

 女が三人ばかりで眠っていると、ガチャンとひどい音を立てて監房の扉があき、
「ソラ、はいった、入った」
と面倒くさそうに云っている看守の声、何か押しかえして扉のところに立っている気勢がおぼろ気に感じられた。瞼をとおして、電燈の黄色い光りを感じ、もう一度、隣りの監房の開く音をきいた。誰か入って来たな。そう思い、体を少しずらせて場所をあけ、そのまま又眠りつづけた。(留置場生活が永くなると、特別な場合でない限り、眠ってから入れられて来る者に対して、無頓着に、幾分迷惑にさえ感じるのであった。)
 朝になった。一番奥のところに昨夜入れられて来た若い女が、頬ぺたを濡手拭で押え、房さり髪を切った体をちぢめるようにして起き上っている。布団を畳む時、女給が、
「あのし[#「し」に傍点]と、ひどいけがしてんのよ」
といやらしそうにこっそり云って、せっせと臭い布団を抱え出した。蒼ざめた細面で立っている全体の物ごしで、すぐ左翼の運動に関係ある人と感じられる。
「けが?」
「…………」
 合点する。傍へよって見て、これはひどい。思わず口をついて出た。
「やられたの?」
 合点をし、微《かすか》な笑いを切なそうな眼の中に泛べた。白っぽい浴衣の胸元、前と、血がほとばしってついているのであった。
「――どうだね」
 よって来る看守に向い、その人はやっと舌を動かして、
「医者よんで下さい」
と要求した。
「化膿しちゃうわ。……歯ぐきと頬っぺたの肉がすっかり剥《はが》れちゃってるんだもの」
「……詰らんもの呑んだりするからえげ[#「えげ」に傍点]ねんだ」
「――医者よんで下さい。ね」
「話して見よう」
 薄手な素足でこっちへ来て坐りながら、
「下剤かけるかしら」
 やや心配気に訊いた。私も小声で、
「何のんだの」
「銀紙のかたまり。……私呑みゃしないってがんばってるんだけど」
 第二房へ入れられた男の同志と昨夜十二時頃仕事をすましていざ寝ようとしているとこへ、ドカドカと四五人土足で侵入して来た。その女の同志はハッとして何かを口へ入れてしまったと見ると、彼等は一時に折り重り、殴る蹴る。間に、一人がステッキを口へ突込んで吐かせようと、我武者羅《がむしゃら》にこじ廻したのだそうだ。
「今市電が立ちかけてるのよ、残念だわ」
 留置場の入口が開く毎に、立ってそっちの方を見た。
「きっと職場でも引っこぬきが始ってる」
 市電では、一月に広尾の罷業を東交の篠田、山下等に売られてから全線納まらず「非常時」政策に抗して動揺しているのであった。
 果して、昼ごろ髪をきっちり分けた車掌服の若い男が二人入って来た。一人が看守に住所姓名を云っている間に、他の一人がこっちにチラリと流眄《ながしめ》をくれ、何か合図をした。女の同志は濡手拭で頬を押えたまま金網へすりついて立っている。新たに来た二人は別々の監房へ入れられた。
「くやしいわ、二人とも×××車庫で、しっかりしてる人だのに」
 その日留置場内の人数は割合少く、看守の気も鎮っていた。一緒につかまった男の同志が人馴れた口調で看守に国鉄従業員の勤務状態などを、話しかけている。それにかこつけて、巧に必要な連絡を女の同志に向ってつけているらしい。女の同志はじっとそれに耳を傾け「ふ、あんなこと云ってる」などと頼もしそうに笑った。
 夕方、自分が二階へ出された。すると特高の西片というのが、
「ゆうべの女はどうしてますか」
と云った。
「ひどい有様ですよ、朝から何一つ食べられやしない」
「軟いものぐらい買ってやるからって云って下さい。まさか人間様に相すまないからね[#「まさか人間様に相すまないからね」に傍点]」
 ステッキを口の中へ突込み、あんな負傷をさせたのは、この男なのであった!
 留置場へ戻るとすぐ自分は女の同志に、
「パンと牛乳買って貰いなさいよ」
と云った。
「漬けてなら食べられるから」
「そうしようかしら――じゃ買って下さい」
 看守は小机に頬杖をついたまま、
「きかなけりゃ駄目だ」
「今上で私につたえろと云ったんだから、いいんです」
「金あるのか」
「あるわ、上にあるわ」
 物臭さそうに看守は肩から立ち上って、「小父さァん」と小使いを呼んだ。

 三日ばかりで、組合の男の同志は月島署へまわされた。
 看守が残った女の同志に、
「君ァ、鳩ぽっぽ(レポータア)かと思ってたらどうしてなかなか偉いんだそうじゃないか」
と云った。
「――鳩ぽっぽだわよ」
 そして、濡手拭を頬に当てたまま、ふ、ふと静かに笑っている。
 自分たちは、段々いろいろのことを話すようになった。
「――入って来たらまだあなたがいたんでびっくりしたわ、とっくに出たんだろうと思ってたのに……」
「仕様がないから悠然とかまえてることさ」
 中川が金のことで自分を追及しはじめて間もなく、主任がこんなことを云った。
「ああ、そう云えばあなたの家でつかまった帝大生、ここにいる間は珍しい位確りしていたが到頭|兜《かぶと》をぬいだそうだよ」
 自分は冷淡に、
「ふーん」
と云った。
「あのくらいの大物で、あんなに何も彼も清算するのは近来ないそうだ、びっくりしていたよ」
「…………」
 六十日以上風呂にも入れず、むけて来る足の皮をチリ紙の上へ落しながら、悠然とかまえてることさと云う時、その主任の云ったことを焙るように胸に泛べているのであった。自分は、金のことを云わなければ半年経とうが帰さないと脅かされて、放ぽり込んで置かれるのであるが、その学生と自分の金の問題とが妙に連関しているようで、しかも心当りもなく、結局、どこの誰がどう清算しようと、知らない事は知らない事だと、腰を据えるしか仕方がないのであった。
 女の同志は、
「本庁の奴、私を見て、なァんだもう来ていたのか! って、あきれてたわ」
 この前は拘留があけると警察から真直ステーションへつれてゆかれ、汽車にのせられ、国元へ送り帰されたのだそうだ。鉄道病院の模範看護婦で、日本大学の夜学で勉強したことがある――。
「そこであんまりとんちんかん[#「とんちんかん」に傍点]な社会学の講義をきかされたんで、妙だ、妙だと思ったのがこっちへ来る始りなのよ」
 可笑《おか》しそうに笑いながら、
「自分で働いてりゃ、馬鹿だってその位気がつくわよ、ねエ」
 サークルの話も出た。文化団体のサークル活動が新しい方針によって実行されるようになってから日の浅いせいもあり、組合のアジプロ活動などと、まだ十分うまく結合、利用されていない――。
「あなた方の活動の日程に、この問題が本気でとりあげられています?」
 女の同志は、
「さあ」
と考え、
「皆が皆、そこまでハッキリ考えちゃいないわね」
 率直に、
「ああ、文化団体か! ってところはのこっているわね」
と云った。だが、交運関係では、既にサークルをもっている職場がいくつかある。自分はそのことを話し、笑いながら、
「どう? 知っていた?」
ときいた。
「知らなかった」
「我々はこれまで、お互にいろんな損をして来ていると思う。我々が偏見をもって反撥していれば、それだけ嬉しがってる奴があるんだから」
「――そう思うと、癪だね」
「ねえ!」
 そんなことを話し合って監房の金網から左手の欄間を見上げると、欅《けやき》は若葉で底光る梅雨空に重く、緑色を垂らしている。――

 ズーッと入って行って横顔を見、自分はおやと目を瞠《みは》った。いつかの地下鉄の娘さんの父親がやって来ている。
「そういう次第でして――私としましては或はもう死んでいるものと思いますが、どうぞ一つ、よろしくお願いします」
 自分は傍のテーブルで新聞をひろげた。
「いや……だが――困ったね」
 主任は、例の酸っぱいような口つきをしながら、鼠色合服の上着の前を左右から掻きあわせつつ、
「どうです……何か変った様子でもなかったですか」
「その晩もごく平常のとおりでして、監視[#「監視」に傍点]は怠らずにいたんですが、あれ[#「あれ」に傍点]がフロからかえって二階へ上りましたもんで、私共もつい気を許して奥へ引込んだのですが……どうも――ほんの二分か三分の間に出てしまったものと見えます」
 ――自分には、そうやって五月蠅《うるさ》く親につきまとわれる娘さんの気分が手にとるように映った。あのぽっちゃりした受口に癇を立てて、ぷりぷりしながら沈んでいる姿まで思いやられるのであった。
 傍で話をきいていて、すぐ死んでしまうとも思えない。さりとて、ストライキの時の確りした友達のところへ駈け込んで、もう二度と家へかえらず新しい生活へ入る決心したのだとも、思えない。いかにも、そういう性の娘さんであった。
 父親は、会社へもねじ込んで行ったのだそうだ。
「同じ切るなら、若いもののことだ、せめて生きられるように切って貰いたかったと云いました。会社の方でも、それはすまなかったとは云っておりましたが……どうも――」
 小商人風の小柄な父親はセルの前をパッとひろげ襦袢を見せて椅子の端にかけ、肩を張って云っている。卑屈なりに今日は精一杯の抗議感を、その切口上のうちに表現しようと力をこめているのが私にまで感じられるのであった。
 主任はいろいろきいている。しかし実は何もする気でない事は、その顔つきで分っている。傍できいていて自分は、この父親の態度が歯痒く、腹立たしいようになった。どうして、ズッパリと、何故娘を殺した! と正面からぶつかって行かないのだろう! 何故|体《たい》あたりに抗議しないのであろう!
 遂に不得要領のまま、
「では――そういう状態ですから一応御報告[#「一応御報告」に傍点]いたして置きます」
 一応御報告[#「一応御報告」に傍点]というところへ云いつくせぬ小心な恨みをこめ、対手にはだが一向|痛痒《つうよう》を与え得ず、父親が去ると、主任は椅子をずらして、
「どうです」
と自分に向った。
「ああいうのをきいて、何と感じます」
「あなた方が益々憎らしい」
「ふむ。――私は飽くまであなた方を憎むね。あんなおっとりした若い娘を煽動してストライキに引こんだのは誰の仕業かね?」
「ストライキをしていた時、あの父親は[#「あの父親は」に傍点]やめさせて呉れと警察へたのみはしなかった。会社が[#
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